20日
木曜日
人生こまわり谷あり
『がきデカ!』ブームで山上たつひこが逆にパンクしてマンガ家休業状態になってしまったこと。朝6時50分起床。入浴、ミクやって朝食。ポンカン、リンゴ三切れ、 トマト冷スープ。
11時まで自宅で、鈴木タイムラー用の四コママンガネタを出す。地下鉄で通勤。週刊新潮買って読んだら、鮎川純太氏がFAX機器の会社作ってつぶした件、記事になって載っていた。もっとも、リースではなく機器輸入販売会社になっていたが。
電話、メール等で2時までつぶれる。予定変更いろいろ。昼は2時。オニギリ(塩昆布)、あといつもの納豆と味噌汁。書きおろし原稿ガシガシ。しかし気力続かず。快楽亭から電話、母のリクエストの新橋演舞場のチケットの件。それからこないだ話した『ミステリー寄席』、国立演芸場の企画部に大ウケで、会議にかけてみると請け 合ってくれた由。しかし私はこういうプロデュースが好きだなあ。
某テレビ関係者から、人づてで参考資料にコミビアのビデオを見せて欲しいと頼まれる。人づてなので何の参考資料かわからぬが、ナニカにつながるかと思い、これまでのものを貸す。手渡してから“戻ってこなくていいですか”と言われてシマッタ、ダビングしたものにすればよかったと思ったが、まあ、またワークスに頼めばいいや とそのまま渡す。
一番町にある某四コマ誌編集から電話。以前にワニマガジンで出たトリビア四コマ誌に載った某作家さんの作品をうちの雑誌に再録したいのだが、それが唐沢さん原作 なので、一応許可を得たいと思いましてとのこと。
「はあ、で、その再録のギャランティーはどうなりますか」
「いえ、再録なのでギャラは発生はしないのですが」
「それはおかしいんじゃないですか、再録だって私が原作なんだから当然ギャラが発 生するのが普通でしょ」
「いえ、わが社は発生しないんですが」
申し訳ないとも、今回はすいませんともなし。カエルか何かと話しているような案配。怒鳴りつけようかと思ったが、こんなの相手にケンカしてホンの数千円(ま、再録などそんなもの)とったところで身の汚れだし、拒否すればそのマンガ家さんに迷惑がかかる、と思って
「あー、いいです、使ってください」
と投げやりに言って切る。
だいたい、この会社と私は以前、向こうから頼まれてプロデュースしたシリーズ企画を向こうの都合で勝手に打ち切りにされ、大いに顔をつぶして大ゲンカし、ホラー評論家のH氏などと共に断然縁を切ったところ。それ以降も、そこで出した本を文庫にするから預けてある図版を返せと談判しても、ああ、そうでした、返しますなどと適当な口を使って、とうとう返さなかった(無くしたんだと思う)。そういう会社で ある。こういうところでも品位が出る。どうしようもない。
不愉快な気分をおさめようと三波春夫『歌藝の軌跡』追悼記念2枚組CDを聞く。一枚はベストヒット歌謡集。そしてもう一枚が『あゝ松の廊下』『俵星玄蕃』などの長編歌謡浪曲集。ベストヒット歌謡集の『チャンチキおけさ』『東京五輪音頭』『世界の国からこんにちは』などを聞くと、ああ、本当にこの人は日本の戦後から高度経済成長までを具現してきた歌手なんだなあ、という思いを新たにする。『東京五輪音頭』と『世界の国から〜』は確か競作で、坂本九など他の歌手も歌っていた覚えがあるが、やはりこういう日本を代表する歌は三波春夫の、あの突き抜けた明るさがないとダメなのである。『チャンチキおけさ』など、歌詞だけ聞くと暗い、人生の敗残者の歌なのだが、それを明るく肯定的に歌ってしまうアンバランスさが三波春夫の魅力 なのだ。
ライバルに同じ浪曲出身の村田英雄がいて、私はこの人も大好きなのだが、三波にあって村田にないのは、その天衣無縫の明るさと共に、その超絶したテクニック、器用さである。器用さに長ける人間は大抵の場合個性に欠けるうらみがあるのだが、三波春夫の場合はその器用さが逆に個性になっている凄さがある。村田英雄は何を歌っても村田英雄でしかないという不器用さが個性を際だたせていたが、逆に三波春夫は
「ここまで器用に歌えるのは三波春夫以外にいない」
という、聞く側を強引に納得させるテクニックそのものが個性なのである。これはまた凄まじいことである。生前、三波春夫は自分の歌を他の歌手に歌われることを好まなかったと言うが、例えそれを許したとしても、『一本刀土俵入り』だの『天竜しぶき笠』などという歌を歌いこなせる力量の歌手がそんなにいたとは思えない。
それは長編浪曲『俵星玄蕃』を聞くと誰しも納得するだろう。歌謡曲、浪曲、講談を渾然一体化させ、そのいずれをとっても巧いのである。そして声がよく、スケールがでかい。もうこれは、他の誰が歌えるというようなものではない。三波春夫の、三波春夫による、三波春夫の歌だ。実は私もこの歌にはしびれて、こっそりとマスター し、中の講談調の部分
「……時に元禄十五年十二月十四日、江戸の夜風をふるわせて、響くは山鹿流儀の陣太鼓、しかも一打ち二打ち三流れ……」
というところや、浪曲部分の
「かかる折しも一人の浪士が、雪を蹴立ててサク、サク、サクサクサクサク……“先生!”“おお、そば屋かァ”」
などというところは一人で口ずさんでは悦に入っている。ただしカラオケで歌うと嫌われる(なにしろ8分34秒もある)ので滅多に歌わないが、それにしてもこれほど歌い手の気持ちのいい曲というのは滅多にあるもんじゃない。たぶん、みな自分の声ではなく、アタマの中に三波春夫のテクで歌う自分をバーチャルに脳内で復元して気持ちよがっているのだろう。ミクシィ内の友人に、精神障害者のセラピーをやっている人がいるが、その人によると、精神科で音楽療法を行うと、妙に三波春夫の歌が上手い患者さんがいて、これがたいていアル中だそうだ。何かわかる話だ。要するに技術だけでバックに何も思い入れを入れなくていいから、純粋に歌う快楽に中毒できるわけである、三波春夫の歌は。分析(脳による思考)がなくても楽しめる純粋芸術 が三波歌謡なのだ。
以前のぞいたサイトで、TM NETWORKのファンだという若い人がこの『歌 藝の軌跡』を買って、
「誤解無きように記しておきますが僕は元々、こういうジャンルの曲を良く聴く人ではありません」
と言わでもの言い訳をしていて笑ったことがあったが、その人は、それでも三波春夫だけは好きで、紅白で三波が『俵星玄蕃』を歌うのを聞いて、“カッコいいなあ”と思い、亡くなったとき追悼でこのCDを買ったのだという。いい話だ。ちなみに彼がその歌を聴いたのは1999年(死の二年前)の紅白、三波76歳のとき。76歳にして二十代の若者をトリコにする技術を披露したわけだ。まさに歌藝である。
ちなみに、私も若者らしく(そんなときもあった)、以前は三波春夫がキラいだった。フォークやGS全盛の時代の子として、三波の歌は否定すべき過去の代表であった。しかし、その思いがネジ伏せられたのはやはり紅白、1975年のそれで三波が歌った『おまんた囃子』。
「北海道のお方もソレソレソレソレ、四国のお方もソレソレソレソレ、九州のお方もソレソレソレソレ……」
と、若手アイドル歌手を従えて、異星から舞い降りてきたかの如き非現実的、かつアーテフィシャルな笑顔で朗々と歌うその姿を見て舌を巻き、
「コレハかなわん」
と頭を下げたのである。ひょっとして、私の尊敬する日本人を二人まで挙げよと言われたら、三波春夫とジャイアント馬場になるかもしれない、というくらい、それからはリスペクトしている。
日本の歌謡界を、独自でこそあれマイナーポエットの世界に留めている階級的ルサンチマンを、三波春夫は声にもスタイルにも微塵も有していない。三波の不幸はまさに、それ故に日本の芸能史・歌謡史の中において、逆説的に異端となってしまったことだろう。日本の歌謡シーンを語る際に三波春夫の扱いがまだまだ小さいと思うのは 私だけだろうか。
5時、時間割。エイバックO氏、講談社K氏、担当編集Tくん、それに新人のMくんと打ち合わせ。テレビ朝日との交渉の件。Oさんこういうときはさすがの切れ味を見せて頼もし。とはいえ交通事故の後遺症が痛むと見えて、しょっちゅう腕や足をさするのがちと痛々しい。以前ボルタレン(強力な鎮痛剤)のやたらミリグラム数多いのをのんで体壊したといい、見せてくれたが、歯医者で出るボルタレンの倍くらいある。さすがにこれはやめたと言っていた。
打ち合わせ終わったあと、次の打ち合わせにいくというO氏と別れ、残ったメンツで夕飯。どこか唐沢さんにおまかせというので、新宿の鳥源。さまざまなテレビ番組に対し、Tくんがやたら辛口に吐き捨てるのが可笑しい。向かう途中で関口誠人さん から携帯に電話があった。
新人のMくんは私と東浩紀のファンというオタク。K副編集長曰く
「わが編集部初のアキバ系です」
Mくん
「いや、アキバ系と言っても萌えの方じゃなくてパーツ系なんです」
と。東工大の院でアインシュタインを研究していたのを中退して講談社に来たという、人生設計のよくわからぬ人だがオタク同士、話は合う。アマゾンの“ワンクリックで買う”システムは魔物だ、などいろいろ話しながら、ここの鳥料理を食わせる。うずらの姿焼きと水炊きのスープには食通のK副編集長も感動していた。帰宅、まだ10時ころだったが、メローコヅルの酔いが回ってベッドに転がり込み、寝る。