裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

2日

日曜日

世界一フケたい授業

 立川談志先生による『清貧論』
 金正日先生による『民主主義国家を作るには』
 小林薫先生による『少女への優しい接し方』
 海老沢勝二先生による『誰からも愛される方法』
(昨日、間違ってこの日記を21日としてアップしてしまった)。朝8時起床、ゆっくりとミクシィやり、風呂入ってから朝食。今日は母が朝から中村勘九郎の勘三郎襲名記念のお練りを見に快楽亭と出かけるので、朝食は自分の部屋で食べる。コーヒー入れ、昨日買っておいたアップルパイ一切れ。

 仕事しようかと思ったが肩こりひどく、今日は休業日に決める。11時に家を出て丸の内線で東京駅まで。東京ステーションギャラリー『暁斎/国芳 なんでもこいッ展だい!』。見に行こうとは前から思っていたが、昨日はれつさんとDさんが無闇に褒めていたので、腰をあげた。タイトルの趣味は決してよくないが、展示物はとにか く私の趣味にドンぴしゃりの展示だった。

 暁斎も国芳も高校生以来のファンで、まず大抵の作品はこれまで美術書などで目にしたことがあると思っていたが、近年、彼らの作品は海外などで新しく発見される率が高くなっており、今回初めて展示される作品もかなりある。土曜日のことで会場はかなりの混み合い。ことに戯画の展示場は、客がみんな、細かいところまでいちいち チェックしようとして動かないので、見回るにはかなりの時間がかかる。

 17メートルもある新富座の妖怪引幕(目出度い引幕に当時の人気俳優を妖怪に見立てたおどろおどろしい戯画を描かせて送ろうというのだから、依頼主の仮名垣魯文も人を喰った趣味人である)の迫力も、やはり眼前に見ると違う。暁斎に比べるとややおとなしい感のある国芳も、『吉野山合戦』の、立て三枚綴りで、まるで展望台に登っていくような感覚で“高さ”を表現するユニークな作品、また代表作『宮本武蔵と巨鯨』という凄い取り合わせのものなど、特に今回の展示は二人の“奇想”に焦点を合わせて展示作品を選んでいる。そういう意味で、一番の見所は戯画・風刺画の展示コーナーだろう。戯画のコーナーで化々(ばけばけ)学校というのがあって、文明開化で教育が行き届き、本来その開化で消え去るはずの迷信の産物である河童や鬼たちが先生に授業を受けている(鬼たちは“針之山”“定はり”などと書かれた地獄の日用品の図を前に、河童たちはローマ字で“SIH RI CO TAMA”などと書かれた黒板を前に勉強している図があるが、これと少年マガジンの『ゲゲゲの鬼太郎のお化け小学校』みたいな特集記事で、そっくりのがあった。妖怪画のコレクター でもあった水木しげるがこれをモデルにして描いたのか。

 そして妖怪画、戯画、風刺画などでその奇想の系譜をたどった末に、最期の展示場で“美人画”を並べ、神経を静めてもらおうという構成もにくい(と、いうか“どうです、しゃれているでしょう”というイヤミがちょっと感じられる)。とはいえ、その美人画でも、二人それぞれが描いた地獄太夫と一休の図(地獄太夫は室町時代の有名な遊女。地獄絵を染め抜いた衣装を身につけていた)を競作のように並べている。 ここでも、やはり国芳はおとなしめで、一休に、皮のない三味線を引く髑髏の頭の上で紙のない骨だけの扇子を広げて一休に踊らせている暁斎の迫力とアイデアの方に現代のわれわれはどうしても軍配を揚げたくなるが、しかしそれは無理もないので、国芳は1791年生まれで1861年没、暁斎は1831年生まれで1889年没。その生年に60年もの差がある(暁斎は7つの歳に国芳に入門している)。この間に世は幕末、明治の風雲を経ているのだ。そのスタイルや表現のスケールで、暁斎の方がより現代の我々の感覚にフィットするのは当然の話。これはフェアではないように 思うがどうだろう? ある程度の風刺も大胆な描写も自由だった暁斎に比べ、むしろ国芳による『壁のむだ書』シリーズのように、役者絵が禁じられていた時代に、“子供の落書き”というモチーフで、誰の顔か名前も入れず、しかし芝居通が見ればいっぺんで似顔だとわかるような工夫をした絵などに、権力に表向き逆らわず従ったフリをして、大胆にそれ を茶化す大衆芸術家のしぶとさを見るのは私だけだろうか。

 ……などとつい判官びいきをしてしまうが、私だってやはり暁斎マニアである。思えば河鍋暁斎の名を初めて目にしたのは中学二年、小栗虫太郎『黒死館殺人事件』の冒頭部分、
「明治十八年建設当初に、河鍋暁斎や落合芳幾をしてこの館の点晴に竜宮の乙姫を描かせた程の縞びやかな眩惑は、その後星の移ると共に薄らいでしまった」
 とある箇所だった。黒死館の壁に描かれた暁斎の乙姫! いったいいかなるものであったのか、という空想がその後暁斎の絵を追うごとに、私の中で高まっていったのである。ちなみに、暁斎は正しくは“きょうさい”と読むのだが、このときのルビが“ぎょうさい”になっていたため、ずっとそれからも私は“ぎょうさい”で読んでいるのである。

 中央線で新宿まで。買い物し、食事をアカシアでとる。ビーフシチューとオイル焼き。ここでロールキャベツを食べなかったのは、忘れもしない1977年、受験で上京して初めて足を踏み入れたとき以来初めて。前に何かの雑誌で読んだのだが、ここの二代目主人の実は自信作というのがこのビーフシチューなのだそうだ。しかし、店に来る客の大半はロールキャベツシチューを頼む。それが店の看板であり名物だから である。痛し痒しというインタビュー記事だった。

 それが頭の片隅で思い出されたので、今日初めてビーフシチューを試みてみたわけだが、なるほどうまい。が、うまいが故にどこにでもある普通の味。はっきり言ってそれほどうまくないロールキャベツシチューの方に“個性”がある。わざわざアカシアまで来て食べる価値がある。例えば落語家でも、噺の技術が向上した故に、初期にあった個性が薄くなってしまうタイプの人がいる。歌手、役者、マンガ家など、芸術の世界に身を置く者などに特に必要なのは自分だけの個性を見極め、それを伸ばしていくセルフ・プロデュース能力だ。それをきちんと見極めずに技術だけを磨くと、た だうまいだけの、どこといって取り柄のない人になってしまう危険性がある。
「うまさと個性」
 の問題、これはいろんなところに応用のきく概念である。

 渋谷までタクシー。いろいろ連絡事項とか。モノマガジン原稿チェックとか。それ終わったあと、急に肩こりひどく、タントンマッサージにかけこむ。10分待ちで揉んでもらえたが、背中にかなり疲れが出ているといわれる。4時45分、そこから銀座。銀座小劇場でうわの空・藤志郎一座一月本公演、『ダブルファンタジー』観る。

 うわの空をオススメできない人々がいる。いわゆる“演劇マニア”という人々だ。小劇場演劇にハマり、あの暗い空間にくりひろげられる観念的長台詞と抽象的ストーリィの世界が大好き、という方々はうわの空の芝居は観ない方がいい。腹がたつ。観念なし。抽象性なし。
「ここで出てくる小林三十朗の、双子だという設定にはなんの意味があるのか?」
「和菓子屋の三姉妹の名が初夢づくしなのはどういう設定意図が?」
 などと深く考えたくなってしまう人はどうぞ、別の劇団へ。たぶん、面白いから、だけなのだ(後者は一月公演だからかな)。うわの空の芝居は観たまま、台詞で語ら れたままの、まんまの世界なのである。

 ところが、“語りたがり”というのが世の中にはいる。解釈とか分析で、その作品世界にイッチョカミしたい奴らが。こういう連中は芝居が好きなのではなく、芝居の分析が好き、いや、もっと言えば芝居を分析している自分が好き、なのである。芝居に限ったことでなく、映画や小説、マンガにもそういう連中が一定層いるのだが、特に小劇場演劇というのは、ファンのほぼ8割がそういう人々で埋められている特殊な世界だ。以前、そういう奴がここの紀伊國屋公演を見て、いちいちのギャグや台詞を解析して、ケナしたメールをよこしてきて、呆れかえったことがある。誰がお前に観にいけと言ったか。うわの空の芝居はオマエみたいな連中のための芝居ではないので ある。

 逆に一番嬉しいのは、勧めた人からの“芝居というのを観たのは初めてですが、こんなに面白いものだったんですね!”という感想。今回も、大阪からわざわざ足を運んでくれた作家の芦辺拓さんが昨日、唐沢さんがあそこまで褒めるなら、と昨日、道 不案内な銀座をなんとかたどって観てきてくれたそうで、
「私は小劇場演劇というものに全くレセプターのない男なんですが……」
 と前置きして、にも関わらずハマった、という感想メールを送ってきてくれた(本当は“だからこそ”なのだろうが)。ディープな大阪人、それも筋金入りのレトロマ ニアだけに、うわの空を松竹新喜劇にあてはめて
「村木藤志郎氏が藤山寛美なら、小栗由加は月城小夜子だ!」
 と直感したそうで、さらに
「それならば、小島秀哉、小島慶四郎に曾我廼家文童、千葉蝶三朗、伴心平、酒井光子、四条栄美、曾我廼家鶴蝶がいなくてはならんはずだが」
 などと思った、などと書いてあってお手上げ。小島秀哉、小島慶四郎、千葉蝶三郎くらいしか私も知らない。

 それはともかく。今回の『ダブルファンタジー』はこれまでのうわの空の芝居により増して、深い意味がない。タイムスリップものなのだが、そこで普通の小劇場演劇だったら、タイムスリップという出来事(かなり大変な出来事)に遭遇した主人公の少女(尾針恵)の心象をもっと掘り下げて描くだろう。と、いうか、そうしないと意 味がない。

 自分の知らなかった父と母の若い日の姿が眼前にあることで、今の自分の存在を見つめ直すことになった少女の内面劇。まあ、創作というものにちょっとでも心覚えが ある人間なら、ここにテーマを置こうとするはずだ。
「私はこれまで私が私であることはあたりまえの、私が私として私を認識している以上に必然的な出来事だと思っていた。でも、こうして私が生まれる前の父と母の関係を見てしまうと、私という一人の人間の存在が、偶然性の中のたった一つの選択でしかなかったということに気づいたの。でも、それだからこそ今の私は、私が好き。数百万という偶然の中から選ばれた偶然で、私は私になった。この偶然はでも、私が私でいるからこそ必然なのよ……」
 みたいな長台詞をえんえん語らせて。

 でも、そんな芝居、うわの空には一切ナシ。80年代の浅草に突然タイムスリップした05年の女の子も、ジョン・レノン命の和菓子屋の長女も、日本政府のボイコットによる幻のモスクワ五輪代表選手も、不良(という程でもないがツッパリの学校嫌い)の三女も、姉妹で一人だけまともな次女も、その次女が何故か気にしている、妙なこと(セミの鳴き声を止めるとか)に万能な和菓子職人も、その次女に片思いしている若い警官も、仕事する気があるんだかないんだかわからない親父さんも、喫茶店のマスターも、その双子の兄弟で、親父と将棋仇の床屋さんも、その床屋さんと妙に夫婦仲のいい、やたらかしましいおばさんも、通りすがりの若者も、全員が同一平面上で語られ、内面を掘り下げられることはない。これは逆に凄いことなのですよ。

 じゃ、この芝居に何があるのかと言えば、ついこないだのようでいて、過ぎ去ってけして戻ってこない、あの80年代への切ないノスタルジーと、ひたすら繰り返され消費されていた“日常”への共感、そしてその合間を埋める多数のギャグ。これだけの力量とキャラクターを持った役者を揃えながら、これだけのことしか語ろうとしないと怒り出すか、これだけの力量とキャラクターを持った役者を揃えて演じられる、そのノスタルジーと共感とギャグを、凄まじく贅沢なものととらえるか。後者である 人々と、私はお友達になれそうな気がしている。

 キャスティングが今回も絶妙(水科孝之と宮垣雄樹にも少ししどころが欲しかったけれど)。これまで、ストーリィ全体のカナメになる“運命の女性(ファム・ファタール)”を演ずることの多かった島優子が、今回は一般人の観客が心を同調させ芝居の“目”になる“普通人”の次女役を演じていて注目。高橋奈緒美の長女はたぶんこれ、地なんじゃないか? 八幡薫と小林三十朗の、合っていないようで実は妙に気の合う夫婦の、あまりに日常的すぎる存在感もいい。最初の案では小栗由加が主役だったそうだが、途中でそれは尾針恵に変更になり、小栗ははじけた妹役というおなじみ の役柄(しかしハマリ役)として元気はつらつ。

 おぐりのスター性をもっと強調するのがうわの空の最大重点事項と思っている私にはこの変更は不満だが、しかし芝居の役どころから言えば正解だろう。尾針恵の、どんな異常な状況にも順応してしまうけど、だけど染まらないマイペースなキャラに、未来(現代)からやってきた少女役はピッタリだ。そして、最近はいじけキャラを演じるのが面白くなってきたらしい村木藤志郎、今回もフテ演技で大いに笑わせる。

 うわの空のこれは方針なのだろうかそれとも座長の戦略か、劇団が成長していっているときだからこそ、あえてオーソドックスなうわの空色をどんどん打ち出して、そのカラーの世間的認知を広めるという方法は決して間違ってはいないと思う。見終えて、尾針恵をもっと徹底して主役扱いにしてもいいと思った。それくらい存在感がある女優になった。小栗由加が最後にどんな扱いをされるかと思ったら……わははは。これは今日からの新設定で、昨日までの観客にはわからぬらしい。ぎじんさん、芦辺さん、もう一回行かないといけないですぜ。

 ただし、私の心の中の、昔徹底して否定した“かつて演劇青年だったココロ”が、 ちょっとだけうずくのも事実だ。
「成長し変化するうわの空も観てみたいのに」
「ここでほんの一言、尾針にこういう台詞を言わせれば、ずっと芝居に深みがつくのに」
「ちょっと役どこが違うとはいえ、小栗に冒険させて、足りない分は周囲でフォローしてやればいいのに」
 などと口をはさみたい気持ちは山々だが、そこは一ファンとしてぐっとこらえる。うわの空を他の劇団に比して際だたせているのはこの安定感なのだし、そこで役が定型にパシッとはまるだけはまっているからこそ、おぐりや尾針を外部で全く違った形で使ってやろう、という外部担当のこちらの欲望にも火がつくのだろうし。

 とにかく、今回の芝居、うわの空初心者という方には100パーセント自信を持って“面白いですぜ”とオススメできる。公演は30日まで。まだまだ余裕がある、などと思うとすぐ過ぎてしまうからご注意! なにしろ、ついこないだだと思っていた 1980年が、すでに二十数年も前のこと、なのだ。
http://www.uwanosora.com/

 終わった後、打ち上げにまぜてもらう。店が土曜のことで混んでなかなか決まらぬ一幕あり。結局、泰明小学校のところまで歩きそこの和民で。芝居の話、80年代の 話、鈴木タイムラー高視聴率の話。途中で関口誠人さんから電話、
「いま、(『世界一受けたい授業』で)唐沢先生見ましたー」
 あのね、アナタ『ザ・ベストテン』でトップとって、紅白出た人でしょうが! と笑う。本当に素直で正直な人なんだろうな、と思う。だから人に簡単にだまされる。 力になってやらねばなるまい。

 村木さんとちょっと小栗由加のことで意見別れる。座に一瞬緊張が走った。私は、小栗はもっとテレビや映像の現場でスターらしい態度をとるべき、と主張、村木さんは小栗をソンナ女優にはしたくない、常に謙虚であれ、自分が他人にお世話になって いるという自覚を持て、と言う。

 村木さんの言うことの方が正論であることは論を待たない。いくら才能ある女優でもタカピー女では一緒に芝居などやっていけまい。それは言われるまでもなく、理解しているつもりだ。
 しかし。
 私が言いたいのは(まあ、場所が場所であまり強弁はしなかったが)あくまでも外部仕事の現場で、ということだ。

 常に行動を共にする劇団の仕事と異なり、外でのお仕事というのは基本的に一期一会。スタッフたちも、小栗の内面性を理解する時間など持てはしない。外面から判断するしかないわけである。だから、トップ女優はトップ女優としてふるまう義務がある。そうでないと、現場の若い連中などは、その扱いをどうしていいかはかる材料が なくて、困ってしまうのだ。

 ある程度以上の扱いを要求する役者だから、あの人はえらいのだな、と理解して、現場でのヒエラルキーが誰の目にも歴然となることにより、スタッフたちの仕事がスムーズになる。非常に変な話、いい扱いを要求するのも仕事のうち、なのである。そして、それだけの扱いをされた見返りは演技で返そう、という自覚を持つ。現場での謙虚や遠慮は、自分の仕事の不出来へのエクスキューズになってしまうという陥穽が あるのである。

 これは私一人の独善的意見ではない。平山亨、湯浅憲明という映像畑の大ベテランお二人から直接に聞いたことである。
「役者、ことに主演の女優さんは徹底して主演扱いして、別格にする。台本より重いモノは持たせぬような待遇にする。すると不思議なことに、それまで半端役しかやったことのない女優さんでも、ちゃんと主役の演技をするようになる」(湯浅憲明)
「わがままを現場で言えない役者さんは決して伸びない。消えていった役者のことを思い出すと、ことごとく“いい人”なんだな」(平山亨)
 ……もちろん、例外は山ほどある。松坂慶子さんはあれだけの大女優ながら実に気さくで、わがままを決していわないいい人だそうだ。しかしながら、それが許されるのは“あの松坂慶子が”と、誰でもわかる大女優だからこそ、なのである。下っ端の 役者が気さくで謙虚でも、それはアタリマエと思われて記憶に残らない。

 謙虚になるのは実のところ簡単だ。誰にでもできる。自己の価値を客観視し、商品化し、それに見合った値段を踏み、“売り物には花”で、それなりの扱いをきちんと求める。これが出来てこそプロ、である。まあ、師匠完全信奉の小栗に、その言に反することを強制するのは酷なのかもしれないが、どうかここのところをきちんと理解し、劇団と外での自分の態度を使い分けてもらいたい。自分のためではない。自分を 高く売ることは、自分の所属するうわの空一座を高く売ることなのである。

 12時、お開き。ビールしか飲まなかったが、結果的に喉が乾いて、また八幡さんや小栗がどんどんついでくれるのでどんどん飲んでしまって、かなり足元が危なくな る。タクシーで帰宅。寝る前にもう一回、“うまさと個性”の問題を熟考。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa