裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

12日

水曜日

ニプレス・オブリッジ

 乳首を隠すことにはそれなりの責任が伴うのだ。朝7時45分起床。50分朝食、クロワッサン一ヶ。その後入浴したらダラけてしまい、ミクなどだらだらやって、出社がほとんど昼になる。出ても電話やメールでの打ち合わせばかり。昨日の某社某氏 に資料類送ったりなんだり。

 ところで、いつぞやの日記に書いたが、また苑豹預メールが来た。
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Date:Wed, 12 Jan 2005 12:22:37 +0900
From: JINEBEE@hotmail.co.jp
To:cxp02120@nifty.ne.jp
初めまして。いきなりメールをお送りして申し訳ありません。 失礼を承知でお尋ねしますが・・・
「恋人」
「彼女」
「結婚」
「割切り」
「不倫」
・・・このキーワードに好奇心をお持ちではないですか?今回は25歳以上の方にだけ、具体的にこの情報をお教えしたいと思います。もし興味のある方は件名を(教えて)としてメールを返信してください。折り返しメールさせていただきます。但し、かなりエッチな内容になりますので、そういったものに嫌悪感を持たれている方はご遠慮ください。
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 だいたい“初めまして”じゃないし、キーワードも少しありきたり。この程度じゃ好奇心も刺激されまい。こっちが好奇心持ってるのはなんで“苑豹預”なんてタイト ルなんだ、ってことなんだが。

 昼食はオニギリ、黒豆納豆、豆腐スープ。4時、時間割にて岡田斗司夫氏と『創』対談。寒風吹く中を岡田さんがセーター一丁で来たので編集のK女史(女史といってはかわいそうなお嬢さんだが)驚くが、
「アロハでないだけ歳とったんですよ」
 と、説明してやる。

 テーマはこないだのオタク大賞でもちょっと出た『フィギュア萌え族(仮)』。お互いのスタンスで一致しているのは、
「あんなこと(大谷攻撃)やってもオタクの認知には何の意味もない」
 ということ。そもそも、“気分”で醸成されたネガティブなイメージを理屈でくつがえそうとしても、効果があるわけがない。それを無駄と認めた上で、岡田さんは
「しかし、何もしないよりはいいかも」
 説であり、私は
「こんなことするよりはまだ、何もしない方がいい、というか、することたくさんあるのにこんなことしてちゃいけない」
 説。そこらへんの対立がうまく出ていれば、かなり面白い対談に仕上がっている筈 である。

 自己のオタク的資質にコンプレックスを持ち、社会的権威からの認知がなければそのアイデンティティを保てないという古いタイプの人が、オタクの中にもときおりいる(例えば伊藤剛とか)。東浩紀が当初オタクのアカデミズム的認知のようなことを言い出したとき、真っ先にその足元に身を寄せたのも、こういうタイプの人たちだ。もともと社会的な価値観とは異なる部分に価値観を見出すことで成立していたオタク文化を、無理矢理に既存の価値観のワク組の中にとらえて正当化しようとするから、彼らの言っていることにはどこか、奇妙なゆがみが生ずる。

 彼らの“萌え”認知運動にまったく意味がないとは言わないが、既存の価値観との衝突を避けるため、オタクの性的嗜好の持つ負の部分を押し隠して(あるいは“表現の自由”という原則論を押し通して)、それを社会に認知させようとしている言動を見ていると、そこになにか危険な徴候を感じないわけにはいかない。こと“性”の問題に関しては、まず、オタクたち自身が自らのそれを見返し、その嗜好の持つ危うさを(一般人以上に)認識した上で、その嗜好をどう、一般社会の中にサンクチュアリを作って着地させ定着させるかを真剣に(内部でも、また外部とも)討議しなくてはならない時期に、すでに立ち至っているのではないか。あの大谷発言だって、うまく使えばオタクたちにとっての他山の石とすることが可能だったはずだ。そこに目を向けようとせず、一ボケ老人でしかない大谷昭宏を叩くことでその本質が隠されてしまい、彼を侮辱したことで何か、問題を解決したような気になってしまう結果しか、今回の騒ぎはもたらさないように思える。

 石黒直樹氏などの、オタクの社会的バッシングを避けるためには、まず何らかの発言をしなければ、という意見は基本的に理解する。しかし、その何らかの発言によって着火された、個人叩きの火が結局のところ、ネットにおける“祭り”的な感情的中傷の嵐につながってしまうとき、“志ある行動”を起こした側までもが、それと一緒くたにされてしまう。ここに、統御できない集団をバックに控えてのトップの行動の難しさがある。私個人の経験で言えば、以前、Fコメディの裏モノ会議室に三枝貴代という、ネット界で当時有名なトラブルメーカーが入り込んで荒しにかかってきたとき、主要メンバーにはメールで“一切無視すること”という通達を出し、相手にせず無視するようつとめた。もちろん、会議室にも議長警告を発して、コメントなどをつけて釣られることを厳に戒めた。ところが、それだけ言われても、火遊びの誘惑に耐えられなかったのだろう。一部の若い連中がつい、からかいの発言をしたり、メールで彼女を挑発したりして、結局のところ彼女をフレーミングさせてしまった。議長の指示に従えない会議室を維持は出来ない。私に出来ることは、休眠宣言を出して、一時会議室を閉じることだけであった。人をたばねることの難しさは身を以て体験済みなのである。

 一般社会的に鑑みての負とされる部分を大きく有することこそが、逆に旧弊な社会常識を底辺部分からくつがえしていくオタクのパワーとなっていることは明白であろう。しかし、負の要素を武器にするということ自体が、オタクの最大の脆弱部分でもある。オタク的嗜好を無条件擁護すると、その壁が将来崩れたとき(いつ、とか、どのような形で、ということさえ予知しなくてよければ、その時は100パーセント来ると断言できる)、周囲に向けていた刃が一斉にわれわれオタクに反転して向けられるのである。

 政治運動を以てオタク叩きの排除を行おうとするのであれば、その運動の基盤にはさまざまな主義主張を持ったオタクたちをある程度間口を広げて取り込み、統御し、かつ、世間に対してオタクの右総代としてその言語行動の責任を取る立場につく代表としての人物、または組織が必要になるだろう。しかし、現実問題としてみれば、あまりに裾野が広がり、その境界線すらもともと明確でないオタクたちを、統合するということなど不可能もいいところだ。現在オタク擁護の先頭に立っている人々に、どれだけオタクのトップたる認識があるか知らないが、それだからといってオタクの末端までをも見渡せはしないし、まして管理など出来ない。責任を持てないものに対し持てるかのように発言するのは欺瞞である。ましてや個人的な快・不快の感情を正義感にスリ変えて大谷叩きを正当化している連中は“オタ身中の虫”でしかない。

 ……などということをまじめに語りすぎた反動か、二人とも対談終わった後、女性編集者Kさんが椅子の奥にいて逃げられないのをいいことにおじさんオタクの性について赤裸々な話連発、オタハラ(オタク・セクハラ)の極み状態。ちょっと困った顔しながらもニコニコと(内心はどうか知らないが)聞いてくれているKさん、いい子 だなあ。

 対談終わって、東急本店で今日の夕飯を買い込む。今夜はK子が語学、母がみなみさんのお誘いでコンサートなので一人なのである。買い物袋下げて仕事場に帰り、講談社のナオシ原稿、最後の推敲(文字数、表記など)終わらせてメール。まず、お仕事でするに関してはこちらの持てるもの全てつぎ込んだような原稿になる。

 ここで時間は9時半。人とメシ食うとなると、この最後の仕事は明日回しになったろう。一人はやはり仕事にはいい。九州の隠れ弟子・Mくんから送られたポンカンの大箱を持って帰宅。自室で、『川本喜八郎作品集』『コ・ホードマン作品集』などのDVD類見ながら食事。ギョウザ、アボカド、ハムなどつまみにビール、それから水割り。最後に釜揚げしらすご飯にシソと一緒にかけてしらす丼。うむ、うまいとウナ り声をあげる。

 川本喜八郎作品集は見て認識を新にした。いまや日本を代表する人形アニメ作家である川本喜八郎だが、その造形スタイルが完成し、執心と解脱というテーマがはっき り顕れた『道成寺』『火宅』もいいけど、私は第一作『花折り』の楽しさ、明るさに やはり、親しみを感じる。と、いうより小学生のときにこれも映像授業で見て、そこから人形アニメ、川本喜八郎という作家にハマったのだ。現在までの最新作『いばら姫またはねむり姫』に小学生がハマるとは思えないし、人形アニメの楽しさが伝わるとは思えない。いや、そもそも小学生に見せてはいけない(15歳の少女が母の元恋 人に肉体をまかせるロリばなしだ。まさにフィギュア萌えである)。

 処女作『花折り』(1968)と『いばら姫または〜』(1990)の間には32年という歳月が横たわっている。さすがに表現技術、動画技術の進歩は凄まじい。内容の深さも比べものにはなるまい。しかし、『いばら姫または〜』と『花折り』を見比べた場合、多くの人間は『花折り』の方を愛するのではあるまいか。と、いうか、この第一作を作るにあたって川本氏は、恩師飯沢匡先生の“明るい作品を”という教 えを守った、と言っている。その後師の教えに背いたわけか。

 ……とはいえ、今見返してみると、『花折り』も、未成年(寺の小坊主)が酒飲んで酔っぱらって正体なくす話なのである。昔はよくこんな作品を小学校の映像授業で見せて、問題にもならなかったもんである。いい時代だった。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa