裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

29日

土曜日

胃の中のクアーズ大概を知らず

 ほーら全部吐いちゃって、大概にしとけって言ったろ。早朝5時半に目が覚めてしまった。朝食に冷蔵庫の中をかき回し、余っていたスモークト・サーモンとキノコのオリーブ油漬けをを田舎パンに挟んで食べる。午前中、週刊アスキー一本。ネタがらみの図版用ブツに面白いものがないかと探し回ったが見あたらず、次点の候補ですませたのが残念。

 石子順三・他『通俗の構造・日本型大衆文化』(1972 太平出版社)を読む。確か二十年ぶりくらいの再読。佐藤忠男『斬られ方の美学』の項の中にに詳細な赤線引きがしてある。この当時の自分の思考と今との変遷がわかって妙。この論攷の中で完全に過去のものとされている、体制に組み込まれることの出来ない主人公が追い詰められ、せっぱつまり、恐怖し、ヤケになり、反発し、反逆し、体制側に大きな損傷を与え、しかし己れもまた傷つき死んでいく、という“斬られ方”は、現代になって見事に現実の事件として再生し、若い世代の声にならない共感を呼んでいる。ただしそれが“美学”になり得ていないのは、今の世代がポストモダンに毒された“価値観の多様さ”という檻の中に閉じ込められているためだろう。一つの檻から脱出したと 思ったら、そこもまた別の檻に過ぎない。
「たとえば戦前の股旅映画なら、自由であること、あるいは自由を追及することの愉しさは、いわば“悪の愉しさ”であるという真実を(描いていた、か。原文のつながりが悪いので唐沢補綴)。人々は、やくざが人間の屑だということは重々承知だが、やくざでもなけりゃあ自由という境地を味わってみる余地はなさそうだ、ということも知っている。(中略)自由であることの愉しさとは、死、あるいは永遠の放浪という反社会的な高価な代償との引き換えでなければ手に入れることのできない後ろめた いものだ、というイメージになってぽっかりと浮ぶ」
 意味はかなりこの論の論旨とズレるが、例えばオタクという形での社会常識からのドロップアウトの快楽が、それに対する意味づけをなされることで再び体制化されることへのオタクたちの不快感は、ここに根をもって生じているような気がする。

 午後、鶴岡との対談原稿に目を通し、どんどん手を加える。なにしろ相手が油断していると限りなく話題を拡散させてしまう男なので、そうはさせじとこっちも気張ってハイになっていたらしく、実際に対談していたときにはまったく記憶に残ってないような論理を飛ばしまくっていて、まことに面白い。売れる本になるかどうかはわからないが、少なくともオタク第一世代の遺書としては異色のものになりそうである。昼飯はお茶漬け。松茸コンブとシラス干し。

 4時半、中野駅前でその鶴岡、エンターブレインNくんと待合せ。ブロードウェイの喫茶店で対談本スケジュール打ち合わせ。6時過ぎ、揃ってなかの芸能小劇場、トンデモ寄席に行く。どうしたことか、開演三○分前からえらい客の入り。笑芸人ブームによる落語ファン、従来からの裏モノファン、それから志加吾あたりのファンらしい女の子、と、まるで交じりあいそうにない三種類の客相。“女コドモが入るようではこの会もダメだねえ”などと開田さんあたりに毒づいていたら、その女コドモの中の一人が私の著書持ってきて、“サインください!”“一緒に写真撮ってください”などと言ってくるので、すぐグニャーとなって、“ハイハイハイ”と応じる。

 客席も客席だが楽屋も楽屋で、今日はもう、語り下ろし落語会にもなんにもなったものにあらず。立川流前座事件(詳細は志加吾のHPあたりで聞くこと)という前代未聞の好ネタに出演者全員舞い上がり、談之助、ブラック、談生の三人は喜々として(談生は半ば恐々、半ば開きなおりで)その状況を語る。なるほど、この客の入りはその件の情報を得たいがためであったか。志加吾のみがきちんとネタをやったのは前座で唯一、『風とマンダラ』の印税で上納金を支払えた余裕だからだろうが、それが一番浮いているというケシカラン会であった。客席、いささか狂的状態の爆笑状態。新潟は欠演、トラの丸山おさむがタップリと熱演。この男、一昨年、うちの小野栄一と同じ歌真似で芸術祭を争って堂々と優秀賞を勝ち取った人物。聞いてみるとやはり新しい。世代交代もムベなるかな。

 終演後、いつもは近くの居酒屋で二次会、という段ドリになるが、人数多すぎそうでもあり、またK子がこないだの『俺ん家』での料理のひどさに激怒したこともありと学会中心で別れて『トラジ』二階。後で出演者一行も合流、1時まで大雑談。途中から早起きがたたって体力ガタ落ち、残念。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa