9日
日曜日
ラエルの面 に小便
いくらフリーセックス集団と言われてもインチキと言われても平気なラエリアン・ムーブメント。朝6時半に起きて日記等書き、UP。朝食、7時半。ハムとエンリギの炒めもの。母から電話。札幌は涼しいらしい。こっちは朝から暑そう。
先週の日曜に、この日記に読売書評欄のことを取り上げて、大学関係者の文章は下手だ、と書いたが、今日の同欄にも大学関係者のものが6本中4本、あった。それを読んで、前回の言を撤回する気になる。いや、どの人もなかなかのものである。名文とこそ言えないが、みな、400字詰め2枚弱というスペースの中に“読ませる”工夫をきちんと入れている。東浩紀氏のみが、どうも突出して文章の才に不足しているらしい(今回は執筆していないけど)。
新聞は基本的に最新ニュースを伝えるもの、書評欄もその原則から言えば新刊データとちょっとした梗概の記載のみでコトはすむ。そこを別途に原稿料を支払ってそのミチの識者に紹介文を書かせるのは、単なる新刊案内から踏み込んで、読者レベルよりやや高い専門的知識を持っている評者の眼から、その本の持つ価値、意義、面 白さを指摘し宣伝させて、要するに読者に身銭を切ってその本を買いたい、という気持ちを喚起させ、その結果をもってわが紙に広告を載せるのは効果的でアリマスヨ、と各出版社に認識させるのが目的である。
本などというものはご承知の通り読まなくても人生に大過ないもの。通勤通 学のひまつぶしであれば赤川次郎斎藤栄西村京太郎志茂田景樹といった人たちの、読者に余計な頭脳を使わせないことを目的とした作品がいくらでも出版され、しかも彼らの作品はちょいと待てばブックオフに半額、四半額で並ぶのだ。そこに、敢えて新刊書、それも少々高く、固く、どこが面白いのかちょっと見にはわかりにくいものを紹介するからには、単なる良書であるという保証ばかりでなく、それを読むことでどのような利益が読者に生ずるか、そのキモを短い枚数でグイとつきつける必要がある。まして現今の出版状況下、いい本も悪い本もひとしなみに書店の新刊台に平積みにされ、次に出る本にトコロテン式に奥へ奥へと追いやられて、ツイこないだ出たはずの出版物ですら、新刊時期を逃すとなかなか手に入れられないという現実の中、早急に書店に足を運ばせなければ紹介の役をなさない。
そしてそもそもそういう能動的な読者というのはワガママ極まりない。彼らは常に流れ込んでくる大量の情報の中から、自分にとって意義のあるものとないものを瞬間的に選別し、役に立たない、自分の好奇心のアンテナにフックしないものを徹底して排除する。大衆主導情報消費社会の原則中の原則はフリークショーの立案者P・T・バーナムの有名なセリフに全て言い尽くされている。曰く、“大衆の好みは三つに要約される。新奇、新奇、新奇だ”。この、ネオフォビア的読者層の嗜好を熟知した上で、書評子はまず、そこのツボをつかなくてはならない。
したがってよき書評とは、何よりも即決判断をうながす殺し文句を上手く駆使し、冒頭部分で読者に、“これはひょっとして・・・・・・”と、すでにサイフのヒモに手をかけた状態で読ませる工夫を必要とするわけだ。バナナの叩き売りで言えば最前列の客が相手。後ろの方の野次馬は、前列の客が帰りにくくなるための柵以上の役割を持たないのである。新聞を文字通りヒマつぶしのために、政治家の動向から家庭欄のお惣菜の作り方まで丁寧に読むような読者は、そもそも余計な金を出して本など買いはしないのである。
今回の書評担当子の皆さんの文章を読むと、みな、それぞれにその冒頭のツカミに個性ある工夫をしていることが見てとれる。東大哲学部助教授の野矢茂樹氏は村上陽 一郎の『科学の現在を問う』を評する文頭で
「あまりにも細分化し、専門化した科学を、それでも問わねばならない。これでいいのか、いけないのか。だが、より根本的に問題なのは、この問いを、誰が、どうやって問うのか、ということである。本書は、何よりもその問題に痛烈に貫かれている。たんに科学を論評するのでなく、科学を問うということをも問いつつ、科学の現在を問う」
と、原文23字8行の中に“問”という文字を8回も使って読者の眼を惹いているし、同じ東大の美術史の助教授である木下直之氏は、ジョン・H・ハモンドの『カメラ・オブスクラ年代記』という、まず一般的には大方の興味の対象になりにくい素材を扱った本の紹介に、“カメラはラテン語で部屋、オブスクラは暗いという意味である”と題名の意味を一行知識風に噛み砕き、
「節穴のある家に住んだ人なら覚えているかもしれない。雨戸の小さな穴から差し込む光が内側の擦りガラスに外の風景を鮮やかに映し出していたことを」
と、読者の幼い日の記憶を喚起させることで、その内容に誘っていこうとする。
もっともオーソドックスな書評の形式を踏んでいると見えるのは大学関係者とは厳密には言えないが作家の高橋源一郎で、本の概要の紹介をごく普通に始めて・・・・・・と見せかけて、“と、いうような説明をしたって仕方あるまい”とひっくり返して見せている。もともとこれは今回の書評対象の中では最も知名度の高い、スティーヴン・キングの暗黒の塔シリーズ最新刊『魔導師の虹』の紹介だから、最初を少し退屈な文体にしてみせる、といった芸当が可能なのである。
それに引き換えて、東氏の、書評には、前回の斎藤環氏の書評にも、その前のドラキュラ新訳の書評にも、そのような工夫が皆無と言っていい。例えば前回のは
「本書は“おたく”を対象にしている。“おたく”とは周知のように、一九八○年代に現れた一群の趣味人たちを意味する。彼らは当初、三十代になってもコミックやアニメ、ゲームに耽溺する幼稚な存在として社会的に非難されていた」
と、だらだら説明口調の解説を続け、本に対する興味をつなぐ、という気遣いをハナから放棄しているのである(そもそもオタク第一世代と言われている人々は八○年代初期にはまだ二十代後半であって、この解説そのものが不正確なのだが、そのことは措く)。
昔、農家直営の八百屋に行くと、スイカの真ん中、一番甘い部分を惜しげもなく刳り貫いて、“どうだね、一口”と、こっちに試食させてくれた。試食は見本の最も甘いところを差し出すのでなくては意味を持たない。新聞という媒体における、しかも400字詰め2枚弱といった文章量で、読んでいるこちらに意を尽くすには、きちんと論理立った、アタマからの丁寧な流れで組み立てられた文はむしろ不親切であり、そこの筆者に要求されるのは、短い中に要点とウリどころをザクリとえぐってこちらに試食させてくれる、その思い切りなのである(タニグチ氏もよく聞きなさいよ)。東浩紀氏の学識高見がどれほどのものか、無学な私などにその評価が出来るわけのものでもない。ただ、売文業の先達として、文章には書き方があり、そして、それは何も特別なことではなく、自分に書評なりエッセイなりを依頼してくるクライアントの目的を思えば、誰でもやり方は理解でき、同じアカデミズムの人間でも、ちゃんとそれをやっているのだよ、ということのみ、指摘したいのである。
昼、K子に弁当作り(ジンギスカン風焼肉)、自分も残りで半杯、台所で立ったままかっこみ、渋谷のマークシティ。太田出版のと学会本打ち合わせ。マークシティの中には初めて入ったが、やたらダダっぴろくてわかりにくく、指定された喫茶店にたどりつくまで少し迷う。眠田直、藤倉珊、皆神龍太郎、植木不等式、山本弘の各運営委員のメンツと太田のHくんとで、と学会白書本のスタイルについて打ち合わせ。9月発行、というスケジュールにこりゃあ無理、とダメを出し、いかに白書本の編集が 大変か、みんな口々にHくんをオドす。ホンキで顔が少し蒼ざめていた。
1時、東大駒場においてと学会例会。参集するもの約50名。横浜SF大会でのトンデモ本大賞候補のことなど打ち合せたあとは、いつもの通りの発表。毎回、自分のウスさをここに来るとシミジミ感じる。これが快感でもある。爆笑とツッコミのうちに6時、散会。と、言っても40名近くがそのまま二次会(うおや一丁)になだれこみ、また爆笑とツッコミ。人数が三次会でもほとんど減らない。場所を探すのがえらい苦労。FKJさんの提案で、恋文横町の『恋歌(レンカ)』という古い店に行く。今回の例会、質のビジターさんが多かったことと、藤倉さんの復帰、それと二次会の後に知ったのだが風来末さんの結婚が特筆ニュース。あの辛辣な芸風の持主がどういう夫婦の会話をしているかと思うと興味津々。
奥平広康くんは欠席。前日に彼の友人からメールがあり、骨折して入院中とのことである。彼のことだから部屋でガシャポンを踏んづけてすべったか、あるいは極右か極左か狂信的宗教家の襲撃を受けたか。お見舞の帽子を回すとかなり集まった。永瀬唯さんも例によってハイテンション。斎藤環氏の本の世の識者たちの誤読、というか宮台慎司などあきらかに読んでない部分がある、とまくしたてて、病気持ちにもかかわらず意気軒高。私も当然ダベリまくるが、トシか先日来のスケジュール過密が原因か、ちと後半バテ、11時に本当に散会。