16日
日曜日
ゲーテはことをし損じる
タイトルに意味はない。朝8時起き。K子は着付け教室の先生の紹介で、品川プリンスの結婚式の着付けのアルバイトで7時半くらいに出かけてしまった。そのせいで日記の更新は夜になる。彼女の担当で、私が勝手にやってはいけないことになっている。こっちはゆっくり起き出して、ゆうべ寿司屋でもらった稲荷寿司とお茶で朝飯。雪印の前社長の暴言失言特集を楽しむ。
美術出版から送られた『できんボーイ』2巻。声だして笑えるマンガって凄いよなあ、と改めて思う。この徹底した意味のなさがマンガだ。鶴岡の解説、単行本の解説文としては傑作のうちに属するだろう。中で田村信のギャグを評論家殺し、分析不可能と位置づけているが、ギャグの分析くらい、昨今の評論は自在に出来るくらいに進歩している。ただし、その分析が田村信のギャグを受け入れることに少しでも有効性があるか、というとこれは別次元の問題であり、単行本の解説の中で彼の“小賢しい評論”に対する悪態はちゃんと機能しているのだ。同じ書評であっても解説、評論、ヨイショ、単なる感想と、それぞれに適した語り口と構成があり、それぞれをTPOで使い分けることが読者及び作者への気くばり。ところが世の中には、どこでもワンパターンの書評しか出来ない人物がいて(以下略)。
植木不等式氏から、こないだのと学会例会で“ジョー・フライディ”という人名について知らないか、と訊かれたが、まったく思いあたらなかった。アメリカの新聞などによく出てくる架空の人名で、頑固一徹、みたいなキャラなのだそうだが、家でアメリカントリビア事典などを引いてみても載ってない。今日、植木氏から来たメールによれば、1967年に放映されたテレビドラマ『ドラグネット』の主人公だとか。アレ、じゃあ“フライディ部長刑事(サージェント・フライディ)”のことかいな、と思っても一度トリビアを引いてみたら、ちゃんと載っていた。67年のそれはリメイクであり、アメリカでは52年から放映の、いやその前に49年からラジオで大人気を博していた実録警察ものドラマの主人公である。アメリカにおける固有名詞の日常語化、というのは私の商売範疇の知識であり、当然心得ていなければならないものだったのだが情けないことである。もっとも、今日、山田風太郎の『室町お伽草紙』の解説を読んだら、あの博学の上野昂志氏が、この小説を読むまでどうも九尾の狐の話を知らなかったらしいということがわかり、驚いたものだ。人間の知識というのはまんべんなく増加していくものではないらしい。
昼飯は魚介カレーとモモ。食べたあと、ずっと説教節のCDを聞きながら寝転がって過ごす。説教節などという古怪な印象のある芸能のイメージを裏切って、十代目薩摩若太夫(内田総淑、昭和五十九年没)の語りのモダンな印象に驚く。解説によるともともと十代目薩摩若太夫の名は九代目の甥にあたる人(その高座もCDに収録)が継いだのだが、内田氏の方の薩摩若太夫も芸に優れていたので、保存協会会長はこちらにも十代目の名を許してしまい、十代目薩摩若太夫が二人出来てしまった。片方を西多摩の若太夫、内田氏の方は八王子の若太夫といったらしい。このややこしさも、いかにも古い伝統芸能という感じであり、この古さがすなわち、私が聞いて驚いたモダンさに通じているのだろう。永井啓夫の跋文にある、“説教浄瑠璃は、現代の芸能として受け入れられないすべての条件をそなえている”という言いきりにむしろ頼もしさを感じる。だからこそ、説教浄瑠璃には価値があるので、“新しさを求めて、それを伝統の技芸に持ち込んで成功した例はひとつもない”という言葉は、そろそろ伝統技芸となりかけている怪獣映画やミステリにも言えることではないか。
老舗の某製作プロダクションについて、国際裁判がらみのシャレにならない話を聞く。シャレにはならないが、あまりにマヌケな話でつい、笑ってしまう。も少し裏をとってから日記には書こう。
夜8時、K子帰宅。結婚式の本チャンではなく、衣装合わせだったそうだが、それだけに何度も何度もウェディングドレスを着せたり脱がしたりせにゃならず、マネキンを抱えて着替え室に持っていく往復だけで筋肉痛になったとか。それで時給七○○円。いまだ年収一○○○万以上あるマンガ家がなんでそんなバイトせにゃならんのかと思うが、酔狂というのはそういうことだろう。鳥鍋、ウナギとカボチャの蒸しものなど作るが、ホントに疲れていると見えてK子、あまり箸が進まず。NHKスペシャルのメソポタミア文明の話など見る。