18日
火曜日
四十過ぎの恥カキコ
いい年をしてあんな書き込みを。朝7時半起き。ゆうべは酔いが中途半端だったせいか、夜中に二度も目を覚ました。朝食、タモギタケのスープ煮。ちとクセがある味である。それとアボカド。朝、鶴岡から電話。こないだの録音、30分ほどテレコの不備で入ってなかったところがあるとか。かなり怒っていたが、怒っても仕方ない。その部分をもう一度しゃべればいいだけのことである。怒るというのはヒマなやつの道楽であって、忙しいときは怒ってる時間がもったいない。
午前中に週アス、連続してもう一本アゲ、それからノーザンクロス(薬剤問屋さんの業界誌)一本。昨夜の寝不足で午後は体力が落ちると踏んだので馬力かけて書き上げる。書き上げた後は予想通りテンションガタ落ち。昨日の資料整理など。2時、雑誌『男の隠れ家』インタビュー。B級雑誌コレクション自慢など、一時間話す。途中でエンターブレインから上記の件で電話。善後策立てる。
光文社『ゲイナー』誌ゲラチェック。ライターさんがまとめた談話を読んで驚いたが、マンガ評論の方向性をあやまらせている元凶は×××××と×××××××、などとロコツに書いてある。こんなこと(ほのめかしはしたが)言ってないぞ。マコトに痛快な言いきりで、その通りなのだがちょっと問題あるので、いささか穏便な表現に訂正する。残念。
向井敏『文章読本』を書庫から抜いてきて寝転がって読む。この人とか丸谷才一の文章読本を読むと、日本における達意の文とは、決して万人に理解されるための文章ではない、という、いささか逆説的な結論に達せざるを得ない。丸谷の言う“ちょっと気取った”文章を名文の条件とするならば、その気取りが理解できるのは書き手と同一の知識レベルと、経験、情報を有するものだけとなるだろう。そんな読者がゴロゴロいるわけもない。必要なのは“この文章は気取っているのだな”ということを読者に悟らせ、“この気取りが理解できるようになりたいものだ”と渇仰させることであり、ついでに“気取っていることがわかるだけでも俺は大したものだ”と、ホンの少しうぬぼれさせることである。そういう、読み手にちょっとだけ背伸びをさせ、知的虚栄心と好奇心を刺激するのがとりもなおさず名文と呼ばれる文章の条件ということになる。手を行き届かせすぎた文章には、読んでのこの快感がないのだ。学術書の文章に名文と呼ばれるものが少ないのは、文の明晰度をどうしても上げすぎるためではないかと思う。名文は書けないにしろ、せめて駄文にならぬよう、一般媒体での文章の読み手の仮想レベルは“ホンの少し”高めに設定しておくことが望ましい。私のこんな日記ですら、斎藤環氏を初対面でちゃんづけして悦に入っているとか、東浩紀氏にメシのタネを奪われそうになっているので悪態をついているとか、笑ってしまう誤読をしている者は多いと聞くが、そういうレベルの読者に合わせて“これはどういう意味で書いているかというとぉ・・・・・・”などと、三平みたいに解説していては日が暮れてしまうのだ。
・設問:この文章を100字以内で誤読せよ。
昨日朝のK子の苦情に強力な応援出現、札幌の母親が豪貴からこの日記を読ませてもらい、“そうよ、品川と高輪じゃ格が違うわ”と言っているらしい。そうか、オカアサンは薬業関係の会で上京するたびに高輪プリンスに泊まっているのだった。
8時に参宮橋交差点あたりでK子と待合せ、昨日のカタキ討ちとばかりに青山を神宮前方面に歩くが、ヨサゲな店がほとんどなし。北青山の和風の店がまえのアテオというイタリア料理店に入る。三カ月前にオープンしたばかりとかで、フォアグラや兎などの素材を使いながら、極めてあっさりとしたソースで好感が持てる。ハウスワインが何かベラボウにうまかった。お値段もナカナカではある。隣のテーブルについていた客たち(男二人、女性二人)は、北アフリカの内政を話題にし、明日はシラクと会う、とかスゴイ話をしていた。K子、オーナーの女性に“ウズラとか兎とか、出すときアタマまでつけて!”と希望してキビ悪がられている。デザートのライスプディングまで平らげたが、腹が張る張る。
帰って腹ごなしに(ならないって)ネットのぞく。二箇所ほどの掲示板で思いがけなくホメられているのを発見。ハリネズミに関する雑知識を集めているHPがあってこないだからハマっている。のぞくたびにハリネズミ博士になっていく私。