19日
木曜日
すけべのアルバム
盗撮写真のコレクション。朝7時15分起床。夢でややこしい人間関係のトラブルをいつまでもぐじぐじ語っている。入浴、日記つけ、朝食。ミカンとスープ。
六花マネ(と、マド)に渡す手紙を母から託される。母の古いパソコンを母の友人に売る件について。
メールで仕事のやりとり。そう言えば加藤芳郎氏が死去していたのだった。マンガ家というイメージよりテレビタレントとしての方が認知されていただろう。私も真っ先に浮かぶのが日本テレビの『ウィークエンダー』の司会者の顔である。
『ウィークエンダー』は、それまで文学少年で、大衆蔑視的な高踏派インテリにあこがれを持っていた私を叩きのめした番組で、徹底した大衆的好奇心への追随でしか、社会の真実は見えてこないのでは、と目からウロコが落ちるきっかけになった。私が裏モノを扱うライターになったのも、この番組の影響が大きい。
また、モノカキのくせにテレビなどにひょこひょこ顔を出すことを別段奇異とも恥ずかしいこととも思わぬのも、この人が先鞭をつけてくれたから、という思いもないではない。マンガ家のくせにタレントで売れて、というやっかみまじりの評価もあったろうが、しかし、何につけ、トップの人間が一般に認知されていないとその業界は発展しない。加藤氏がその抜群の知名度で財界や政界にも顔が利いたからこそ、マンガ家というものは偉いものなのだ、という認識が世間に生まれたのも事実である。
日本のマンガ家が、手塚治虫以前にある種の文人集団として文化的に位置づけられるようになった、いわば功労者である。今の人はマンガが文化となった功績を手塚治虫一人に与えてそれでよしとしているが、正確に言えば手塚さんは“少年マンガを”文化として位置づけた人であって、それ以前でも、ナンセンスマンガや風刺マンガは、芸術とまでは見做されないにしろ、ちゃんと文化の一端に位置していた。それは、自らを文化人として任じ、俳諧などにある日本文化の“軽み”の伝統を引くものとしてマンガを定着させた(岡本一平などの先駆者はいたものの)加藤芳郎や小島功の力があずかって大きい。
とはいえ、その後のマンガ文化、主に児童マンガ文化の爆発的広がりは、80年代以降、完全に彼らを過去の人にしてしまった。文春漫画賞の選考委員を長いこと務めていたが、92年に受賞した江口寿史のことを「すごい新人が出てきた(江口のデビューは1977年)」と評して笑いものになったのは、審査員としてはまことに不勉強を露呈した言で、糾弾されても仕方ないことだったが、まあ、それも当時のマンガ界の世代交代の波の激しさを思えば(江口自身、すでに過去の人になりかけていた)ありがちな認識のズレだったかも知れない。文春側が若手漫画家を候補に挙げる時点で審査員を交代させていればよかったのである(もっとも文春側にしてみれば、加藤氏たち日本漫画家協会が賞を回り持ちで私物化している、という気持がかなり強くあったろう)。
それにしても、みんな『まっぴら君』のことしか語らない。実はこの人の風刺精神というのは、そんなに鋭いものではなかったのではないか、と思うのだ。風刺の意識が強ければ、あれほどマスコミには乗れなかったろう。この人の本領は『千匹の忍者』とか『オレはオバケだぞ』などの徹底したナンセンスの方にあったと思う。
弁当使い(焼きタラコと卵焼き。美味)、1時銀座へ。東銀座CINEMART銀座試写室にて映画『クラッシュ』(ポール・ハギス監督)。マイミクのWさん(この作品のプレス記事を書いている)から勧められたもの。
ロサンゼルスの貧民街を主な舞台にして、人種的偏見のるつぼの中であえぎ、または社会的には恵まれていても、さまざまなトラブルを抱えて、外界との摩擦感で精神が破綻するギリギリのところにいる人々の姿を描いた群集劇。『クラッシュ』は交通事故のことだが、そんなぶつかりあいでしか、人と人とのふれあいが生じない、息苦しい現代の姿をカメラが執拗に追っていく。その鋭敏なタッチに引き込まれつつも、観はじめてしばらくは
「あちゃ〜、暗い映画だな〜、ストーリィ追うのがつらいな、こりゃ」
という思いで感情的に反発を感じていた。やがてカタストロフで全員が不幸になる(今よりもっと)、という展開を予想していたのだ。
ところが。後半、登場人物の一人であるマット・ディロンの警官のエピソードが“え?”という感じで収束したのを皮切りに、並列で描かれてきたエピソードのそれぞれがからみあい、関係しあいつつ、どんどんとハートフルな方へと傾斜していくではないか。そして途中でハッと気がついた。そうだ、この映画で描かれている時期はクリスマス。これはクリスマス・ストーリィなのだ。クリスマスには、奇跡が起こる。人々が、神の愛を感じるのだ。
『ラブ・アクチュアリー』がまさにそういう映画だったが、これもまた、その系譜の映画であった!もちろん、あれに比べればこの『クラッシュ』は、クリスマス・ストーリィとは言い条、はるかに苦い。全てがハッピーエンドに終わるわけではない。命を落とす登場人物もいる。しかし、そこにも全て、人生の機微が描かれており、後味を悪いものにはしていない。見終わって、オトナの映画を観た、という満足感の残る、そんな映画だった。脚本(監督のハギスとボビー・モレスコ)がアカデミー賞の有力候補になっているという(一番ギャラの高いであろうサンドラ・ブロックのエピソードがちょっと弱いのが気になるけれど)が、私もこういう台本を書きたいものだ、と思った。
http://www.movienet.co.jp/movie/opus06/crash/
いい映画を観て、機嫌よく地下鉄で仕事場へ。オノマネは今日は前の会社の残務整理で仕事場へは来ていない。明日のブジオの岡田斗司夫さんの紹介文を書き、原稿仕事少し。6時、新宿シアター・アプルへ。入り口でオノマネと落ち合う。WAHAHA本舗の楳ちゃんの公演の準備の最中を縫って、清水ひとみさん、脚本の貞岡秀司さんと『大女優宣言』打ち合せ。途中で喰始さんも加わる。夢の話、精神分析の話などいろいろ。
雑談の中で、〆切がないと書けないという話になり
「人間、追いつめられないとダメですね」
というと喰さん、そうそう、ハングリー精神がないと売れない、と言い、貞岡さんに
「家なんか買っちゃダメだぞ。賃貸に済んで、“働かないと済む家もなくなる”って意識でいないと作家は絶対モノにはならないんだから」
と説教。
なをきが自分の口癖のように、
「親の家にいる奴は絶対ロクなものにならない」
と言っていたのと相通じる。自分を背水の境地に追い込むことが出来るかどうか、が売れるかどうかの境目だろう。
そのあと、杉ちゃん&鉄平くんの楽屋に挨拶に行く。顔の大きさの違いについ笑ってしまった。出て、青葉で六花といろいろ、今後のこと打ち合せながらメシ。上海蟹食べたがあまりうまくなかった。
10時過ぎ、帰宅して受信メールみたら、開田さんから、2月の能登、フラットのベンがちょうどアメリカに行っているのでNG、と伝えてくる。愕然として落ち込む。年に一回、行けるか行けないかのところなのにこうまで巡り合わせが悪いとは。