裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

27日

火曜日

アスホールと思う心の仇桜

 夜半にオカマの掘らぬものかは。朝8時起床。ぐっすり寝たので疲れはほぼ、回復した。夢で巨大なホールの中にある映画上映コーナーを見る。入りたいのだが、ここは一回上映ごとに入れ替えで、まだ入れない。これは、昨日のギャガの試写を終わって出たら、次の映画の試写待ちの人がずらりと列を作っていたのが印象に残って見た夢か。映画館の夢はいくつも見るが、立派であれオンボロであれ、常に実際のそれよりはるかにスクリーンも大きく、広い。そして落ち着かないのである。朝食、ふかし イモとスープ。K子にはスクランブルド・エッグ。

 伊賀土鍋で初めてメシを炊く。通販で買ったもので、美味エッセイの佐藤隆介氏が絶賛し、『船山』の主人も勧めていたやつ。昨日、小麦粉のカユを炊いて下準備(土鍋の微細孔をふさぎ、水漏れを防ぐ)をして、今日が初めての御飯炊きである。米を研いで水と一緒に土鍋に入れ、約20分、火にかける。沸騰してきたら、そこで火を止め、また20分、放置しておく。これだけで、実にうまいメシが炊ける。船山のメシを食うたびに、家庭電気ガマではこの味は出ないか、とくやしい思いをしていたので、通販カタログで見つけて、コレダコレダとすぐ注文した(人気商品で、届くのに数カ月かかった)。やってみると、なるほど、水分がちゃんと米の中にまで染みて、ふっくらかつ柔らかな、非常に米の味がうまく感じられる炊き方になる。最初なのでまだ技術的改良の余地はあるが、何回か繰り返すうちに火加減や水加減はコツがつか めるだろう。さっそくK子の弁当に詰め、オカズはピーマンと鴨肉の中華風。

 私もその御飯を食べる。オカズは以前の芋煮の残ったのとタクアンである。昼には冷や飯になっているが、それでも十分柔らかい。この御飯なら、なまじオカズは凝らずに、梅干しとか漬け物とかだけで食べるのがいいかもしれぬ。講談社Web現代をやろうとするが、ちょっとテンション上がらず。開田さんの特撮同人誌の方を先にか たずける。Webの方は担当のYくんと電話して、夜のことにする。

 学研のWebマガジンから電話。インタビューの依頼。光文社フラッシュからも次の特集のインタビュー、日付け確認。こういうインタビュー仕事が増えると、ああ年末だな、という感じになる。談之助師匠からも、立川流同人誌の座談会原稿、日時調整。なお、『元祖・立川流』(志らくの弟子のところと区別するため)はなぜか西館だそうである。ひょっとして、立川流やおい同人誌と思われたのではないかと思う。 12月30日・西す11a。

 東浩紀『動物化とポストモダン』(講談社現代新書)に目を通す。20ページ目にあるリミテッド・アニメの解説を読んでニヤつく。ちょっとそこのくだりを引用してみようか。                                 「リミテッド・アニメとは、フル・アニメと対をなす言葉で、一秒につき八枚の動画(動画一枚につき三コマ撮り)で作られたアニメーションを意味する。この手法はもともと、四○年代後半のアメリカで、ディズニー的なリアリズムへの反発から生み出された。つまりそれは、当初は、アニメーションという表現媒体の可能性を引き出すために選ばれた、芸術家の側の積極的な選択だったわけだ。しかしその手法は日本では、手塚治虫が作った『鉄腕アトム』以降、TVアニメを効率よく生産するための必要悪へと変わってしまう。(中略) その状況は当時の批評家たちにとっても耐え難いものだったようで、六六年に出版された古典的なアニメーション解説書でもすでに 強く批判されている」

 参考までに、私のこの日記の2000年10月19日の記述を再掲する。東氏の対談集『不過視なものの世界』における、リミテッド・アニメの定義と見解の誤りを指摘した部分である。                             「リミテッド・アニメという用語には意味が二つある。ひとつは動画の動きそのものをディフォルメしたもので、自然的・写実的なフル・アニメを、よりアップテンポでグラフィカルなものにするために、動きや絵に意識的に制限を加えていることから、リミテッドと呼ばれる。(中略)そしてもうひとつが、主にTV用に、動画の枚数ソノモノに制限を加えたリミテッドである。これはもう、ただ単純に予算節約という一事のためのみに動きを犠牲にしている(中略)ただし、アメリカ製のTVアニメは初期には基本の一秒二コマ十二枚撮りという方式自体は崩さず、動作のくりかえしと、口パクの多用で枚数を節約したものがほとんどだった。ところがこれを日本で手塚治虫氏が『鉄腕アトム』を製作する際、リミテッド、という意味を拡大解釈し、動画一枚を三コマ撮り、つまり一秒につき動画八枚で済ます手法を取り入れた。(中略)それ以降、TVアニメは一枚三コマ撮りという“常識”が定着してしまった。(中略)三コマ撮りリミテッドについての最も正当な定義は、              “リミテッド・スタイルというものは、少なくともその当初においては、作家たちの内的創造的欲求から生まれたものだった。ところが、それが、一九五七年以降のTV用漫画映画の全盛期に入るにつれ、ディズニー流の完成されすぎたフル・アニメのしがらみからぬけ出すためという芸術的理由は事実上単なる美名にすぎなくなり、製作費の節約というありがたい恩恵(!)だけが悪循環の結果として残った、というのが 今日の実状である”                             というもの(森卓也『アニメーション入門』1966、美術出版社)であろう」

 続いてその前日、10月19日の記述から。                 「氏はリミテッド・アニメを“ディズニー・アニメ”(何故かフル・アニメーションという用語を使っていない)に対立させて論じているのだが、そもそもリミテッド・アニメーション方式を確立したのはディズニー・プロダクション脱退組が一九四八年に組織したUPAであり、さらにその技術を逆輸入させた、ディズニー古参のウォード・キンボールによる一九五三年の『プカドン交響楽』で方式としての完成を見た、というのがアニメ史における常識のはずだ。(中略)東氏は、一秒二十四コマで撮ったものがフル・アニメで、十六コマで撮ったものをリミテッドだと思っているらしいが、リミテッドだって一秒は二十四コマである。一枚の絵を何コマずつ撮影するかが違うので、ディズニーでもよほどデリケートな動きの部分以外は一枚の絵は二コマずつ撮っている。(中略)ディズニーのフルに対して日本はリミテッド方式を編み出し た、などという図式は全く成り立たない」

 ……確かこの本を評価していたネット書評のひとつに“理解度の進展が著しい”というのがあったと思ったが、なるほど、効率的な知識の吸収をしているようである。いやなに、別に私の日記からパクった、などと失礼なことを言っているのではない。第一、当該日付けの私の日記にはリミテッドの意味するところを“動画一枚につき三コマ撮りで作られたアニメーション”などと限定するようなバカな記述はしていませんから(それにしてもよくこう御念を入れて間違えられるものである。動物化しているのは著者の方ではないのか?)。しかし、そんなことは些細な誤りさと開き直るにしろ、こう、『不過視な〜』と定義が異なると、純真な東ファンの中には混乱する者も出てくるのではないか。従来の著作の誤りに関しては相反する記述を新著でした場合には注釈を記しておくのが親切というものではないかねえ。……ちなみにこのセル節約方式が生み出した止メの効果が日本独自の、江戸錦絵などとのつながりの文化として位置づけられるのは、東氏が言うように八○年代のオタクたちによるオタク文化肯定論ブーム以降のこと、などではない。すでにこのアトムの手法を“歌舞伎の『見得』の応用による、いかにも日本的で、強烈な印象を与える手法と発想”と評価した批評がある新聞に載り、手塚が苦笑した、というエピソードが手塚自身の著作に記されている。時期的に言ってもこの記者はオタクではあるまい。日本文化へのある程度の教養があれば、見るものにそれとの関連性を発見するのはオタクに限らず誰しもあることであろうし、また70年以降の、ディスカバー・ジャパンブームの影響も無視できまい。それらのことに触れず、東氏のように疑似日本への執着をオタクの特徴と言い切って理論を構築するのは、かなり恣意的かつ粗雑な、足下のあやうい行為のように思えてならないのだが。

 K子に、こないだと学会の例会に来たまんだらけのコスプレ店員“声”ちゃんのヘアヌード剃毛写真集を見せてもらう。古川益三撮影である。古川氏のあとがきによれば、彼女はこれから大変にビッグになると、リーディングチャネラーが保証しているそうである。奥付のところに、剃った毛が一本々々、ビニールパックされている。うひゃあ。K子は彼女をこないだの睦月さんの軍歌会(私は博多に行っていて不参加)に連れていって、彼女も軍歌にハマってしまったようである。ところで、彼女の日記サイトがあるが、ここの文章が一種独特である。単語の選び方が、プロには出来ない というか、なんというか。軍歌に一脈相通ずる文章リズムかもしれない。http://www.mandarake.co.jp/tv/koe/main.html

 結局、Web現代は明日回しとなる。9時家を出て、四谷駅前でK子と待ち合わせて、駅前商店街へ。へぎそばの店『越後路』。ついたテーブルの隣にやたらバカでかい声で話す酔客がいて、見兼ねたおかみさんが、われわれを奥の座敷に移動させてくれた。寒いのでいきなり日本酒。温奴、ほうぼう刺身、ブリのカブト焼き。これは二人にはデカすぎる巨大さであった。それとへぎそば。ラストオーダーだったせいか、ちょっとノビ気味で、私には不満な味。やはりここの通りではおでんやのDENが一 番かな。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa