裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

16日

金曜日

海砂利水魚の東大閥京大閥早大閥

 これらは日本の学歴社会の中で尽きることがないという、まことに目出度い……。朝、6時頃目を覚まして、三枝成彰『三枝成彰オペラに討ち入る』(WAC)再読。昨日の日記に日本人のアイデンティティについてこの人の本を引用したんで、ひさしぶりに読み返してみた(初版は99年)。“忠臣蔵”をオペラにして上演した際の苦労を縷々、書いた本で、私は正直、日本にオペラは根付かないと思っている人間で、初読のときも今度読んでも、このオペラ『忠臣蔵』を観に行きたいとは思わないのであるが、しかし、まさにそれ故に、オビの文句の通り“オペラは舞台ウラがおもしろ い”(皮肉な文句だね、考えてみると)。

 その中でアイデンティティに触れた部分はこうである。
「今ぼくは、あえて情に溺れるような音楽を作っていきたいと考えている。というのは、情緒に溺れることこそ、日本人のアイデンティティだと信じているからである。(中略)そもそも論理性に欠けていて、情緒で物事を考え判断することこそ、日本という社会の根本原理にちがいない」

 それ故に、三枝氏は、日本人にはオペラが似合うという。では、オペラとはいったい何なのか。中に引用されている許光俊氏の言葉の、“オペラとはどういうものか” の例が実に面白い。典型的・代表的なオペラとは、
「飽きるほど長くて
 必要のなさそうな登場人物までわんさと登場して
 ストーリーがこんがらがることも珍しくなく
 それどころかウソっぽいところもいっぱいあり
 なぜこれほどまでにというほど声を張り上げて
 悲しい嬉しいと叫び
 最後はだいたい悲惨な結末に終わるのを
 豪華な劇場で着飾った人たちが見て
 終わったらブラボーとかブーとか叫ぶもの
 である」
 ……つまりは、徹底した非日常、祝祭の世界である、というもの。三枝成彰もこれを受けて、
「オペラの真髄はどうやらお涙頂戴指揮の大メロドラマにあって、主人公が愛や恋に殉じて死ぬなら、観客は滂沱の涙を流しつつも、お金を払っただけの精神的なカタルシスを、まちがいなく感じることだろう。だが、主人公たちがおめおめと生き残ってしまったりすると、“なんだこれは!”と文句を言い出すにちがいないのである」
 と言う。生き残ることで、非日常のドラマが完結しないから、である。愛のために自分が死ねないからこそ、愛のために人が死ぬ劇を見て人は感動したがるのである。

 三枝氏が自分の忠臣蔵オペラの企画のことをパヴァロッティに会って話したとき、パヴァロッティは“そのオペラでは何人死ぬのか”と訊ねてきたそうである。三枝氏が“四十七人以上死ぬ”と答えると“それは絶対に当たる!”と太鼓判を押してくれたとか。笑ってしまうようなエピソードだが、オペラとはそういうものなのだ。

 こういう話はまことに面白いし、オペラの味方をしたくなってしまう。しかし、本の後半、そのオペラというものがいかに金を食うものか、を具体的に書いた部分(裏話としてはここが一番興味深い部分)『こうしてお金は消えてゆく』を読むと、そのエクストラヴァガンザ(規格外れ)なことに、やや索漠たる気持ちになってくるのも事実だ。日本人は確かに、三枝氏の言うように、情に溺れるアイデンティティを持つが、しかし、その情の器が、やはり西欧人に比べて小さいのであろう。舞台制作費が一億一千五〇〇万、舞台装置六千九〇〇万、件費三千八〇〇万、大道具の運搬、照明装置舞台装置の組立・ばらし代二億、空間に光の幕を作る特殊装置に三千万、舞台の上に本物の水で雨を降らせる装置に六〇〇万(これが何かもう破格に安く感じる)、衣装代・鬘代、着付・結髪代しめて四千万、合唱団のギャランティー八十人で三千五百万、演出家にウェルナー・ヘルツォークを呼んでこのギャラが二千一〇〇万、美術の石岡瑛子のギャラ一千二〇〇万、脚本の島田雅彦のギャラ二〇〇万(彼だけいやに安いのは、その後のCDやビデオなどの印税取り分が含まれているため)……という数字がずらずら並び、しかも三千万のその光の装置はホンの一幕だけに使用されるだけで、実際に使ってみると“大して効果があがらなかった”などと書かれると、“それだけの金があれば一家四人が何年、食べていけるか……”と、いうようないじましいことを考えてしまうのが日本人なのだ。三枝氏が日本人のアイデンティティを肯定するなら、こういうところも含めて肯定して欲しかった気がする(日本人には二面性がある、と三枝氏自身言っているんだし)。いかにルードヴィッヒ二世の壮大なムダが今、ワーグナーのオペラとして人類の遺産になっている、と言われても、それを思えるのは現在のわれわれの懐がルードヴィッヒで痛んでいないからで、この事業に協賛して大枚の金を支払ったアサヒビールやNTTデータサービスの社員にとっては、自らの給料の振込通知の額と比べてタメ息をつかざるを得ないだろう。ルードヴィッヒの時代と今とでは、庶民の意識というものが異なるのである。

 7時起床、入浴、歯磨。7時半朝食、トマト入りコンソメ、ゴマパン、果物はバナナとリンゴ。横山光輝氏死去の報、どうもその業績に比して、扱いが小さいように思う。人質帰国のニュースと一緒なのが原因か。思えば、手塚治虫氏死去のときは、マニラ誘拐事件の被害者である若王子氏の死去と重なって、やはり記事の位置や大きさで少しソンをしていた。鉄人とアトム、日本二大ロボット漫画の作者の死の報道に、どちらも誘拐事件関連の記事がからむというのも一奇と言えるかも知れない。

 例ノ如ク8時25分の幡ヶ谷経由渋谷行きバスで通勤。幡代のあたりにある雀荘で“麻雀探検倶楽部・プレスリーは麻雀を打ったか?”というふるった店名のところがある。打ったらどうした、てなものではあるが。天気晴朗、わたる風もまことに心地 よいが、どうもまだノドがいがらっぽく、肩にしびれるような痛みあり。

 仕事場着、まずはSFマガジンの図版キャプションと近況、告知を載せてもらうトンデモ本大賞東京大会のデータを書いてメール。それから、『社会派くんがゆく!』のイラク人質コラム緊急原稿。このあいだ書き上げたのだが、その当日に解放されてしまったので、全部書き直し。こんなところでも迷惑をかける連中である(まあ、解放されたのは彼らの責任じゃないが)。8枚を二時間半で書き上げて、メール。これ は『社会派くんがゆく!』号外として掲載される予定。
http://www.shakaihakun.com/data/
↑ここをのぞいてみること。

 弁当、1時。お菜はアジのムニエルみたいな、粉つけ焼きと、ポテトサラダ。アジがお菓子みたいな外見ながら、うまくて仕方ない。食べながらネット幾つかのぞく。イスラエルに住んでいる山森みかさんという人の日記に、四方田犬彦氏がイスラエル人に映画『春琴抄』(盲目のお嬢さまに恋をした奉公人が、愛を示すため目を自らつ ぶして自分も盲目になる話)を見せたら、
「二人で見えなくなったら、愛する人に仕えられないじゃないか、意味がない」
 と合理的な反応しか返ってこなかった、という記述があった(15日)。山森さんは“だからメロドラマなんだってば”と、やや辟易気味だが、実はこの反応は、昭和天皇がこの映画の原作たる谷崎の小説を読んで、侍従に漏らしたと言われる感想と同じである。うーむ、やはり天皇家はユダヤとつながりがあるのか? などと言うとトンデモになるが、天皇家はメロドラマには反応しない血筋であるらしい。さればこそ情緒に流れた日本で起きた二・二六に昭和天皇は同情するどころか激怒し、決起将校たちが、ならば自決をするから陛下からそれを命ずる勅使を賜りたい、と言ってきた のに対し、
「自殺するならば勝手に為すべく、此の如きものに勅使抔(など)、以ての外なり」
 と言って退けた。今の天皇陛下がどうかは知らないが、このような元首を上に頂いている国では、(三枝さんには気の毒だが)日本にワーグナーが出現する目はないだ ろう。

 食べ終わってすぐ、『FRIDAY』増刊号用の原稿“トリビアのコツ”を書き出す。書いている最中にメールで、朝日新聞から『ピンホールコラム』の最初の原稿好評につき、二回目お願いしますと依頼。コラム欄自体軌道に乗ってきたので、向後は一ヶ月に一本の割合で書いてもらいたいとのこと。さらに開田さんから、横手美智子さんを通じて、例の水島努監督と飲む会の件。水島監督は“でも、唐沢さんや開田さんて怖くないかな”とまだ言っているようで、何かマサオのキャラクターみたいだ。水島監督にこちらが直接会いに行く、というのではかえってビビるかもしれないからこっちの飲み会に水島さんと横手さんが混じる、という形にすればどうでしょう、と開田さんにメールする。開田さんは“カラサワさんはともかく、何で私までコワがら れるのか、腑に落ちない”と文句言っていた。

『FRIDAY』8枚半、中に盛り込む一行知識の選択に苦労して時間がかかる。肩の張りのためにマッサージを予約しているのをキャンセルしようかどうしようか迷いつつ書き進め、なんとかかんとか5時45分に脱稿、メール。急いで新宿に出、マッサージ、いや、その前にもう一件、SFマガジンの図版用ブツをイラストの井の頭さんのところへ宅急便で出す仕事があった。それをコナして、サウナへ飛び込む。サウナ、いつもよりサウナ室の温度が高く、汗がジャバジャバと出る。体重をはかったら1.5キロほど痩せていた(汗を流す前)。外食が減ったせいか。マッサージ、新し い女性の先生。中国武術でもやっていそうな感じの人。

 マッサージ受けてすっかり全身活性化、多少汗かきすぎてフラフラなれども(風邪もあるな、と途中で気がついてユンケル買ってのんだ)いい気分で地下鉄にて帰宅、本日はK子と母と三人だけで食事。焼いたナス、鴨と水菜の煮物、それにあのつくんからこのあいだいただいた仙台のテールスープでラーメン、さらに青井さんから貰ったギョウザを焼いて。風邪気味なのでロン三宝貰って飲み、さっさと酔っぱらって寝てしまおうと、酒も熱燗にして飲む。鴨の味わい、さすが鴨という感じ。

 K子とDVDで『アタックNO.1』を見る。“こないだはオタ話がうるさくてよく聞こえなかった”と言うのでまた1話から。もう三十五年も前の作品で、ノスタルジーでしか見られないかと思っていたら、主人公の鮎原こずえがいわゆる努力型のいい子ではなく、生意気な天才少女で、バレーボールチームに誘われて“遠慮しておくわ、私、負けるのが嫌いだから”とか言って断るのがスゴい。田舎の学校の(彼女は東京からの転校生)バレーチームなどバカにしているんである。で、主人公のこずえは退屈のあまり不良少女たちの仲間に加わり、林の中でゴーゴーを踊ったりする。そこらへんのキッチュさや、サイケな色使いの演出、やたらフラフラ移動するカメラなど、今こういう作品が絶滅しているだけに、何か異様に新鮮に見えてしまう。そんな中で唯一、時代を感じるのが、作画監督である竹内留吉氏の名前。いまこういう名前の人、いなくなったねえ。何人兄弟の末っ子だったのであろうか。時代を感じるとは言ったが、しかし、東映動画初期から、なんと『ドラゴンボール』『ワンピース』あたりまでの長きにわたり活躍し続け、死去はほんの数年前の2001年。

 10時のNHKニュースでイラク人質事件続報を見る。嬉々とした表情でいるところがまた、腹がたつ。彼らをいまだ弁護している人々は、とにかく現政権が自衛隊を派遣したことが憎くて、それに反対している彼らを英雄視しているのだろうが、結果を見れば現政権は彼らの命を救ったことで点数を稼ぎ、また、彼らがいまなおイラク残留や自衛隊撤退を口にしていることで、何という恩知らずな輩か、と世間の“情に流される日本人”たちを怒らせて味方につけ、かつ、現在活動中の他のNGOにも、“あまり勝手なことをしなさんな”とクギを刺すだけの恩を売った。チャーター機を出すなど税金のムダ使いだ、という意見もあるようだが、なに、あれは政府がいかに彼らのためにムダな金を使わせられているか、を見せつけるためにわざわざ出しているんである。結果として、彼ら三人の行動は利敵行為にしかなっていない。一番、彼らに対し怒らなくてはならないのは、自衛隊撤退派の人々のはずだ。それが、これまた“情に流され”て、“平和のために尽くしたのに世間から非難を受ける哀れな若者たち”みたいな扱いをして、一般大衆との乖離を深めている。どこまで純情(馬鹿と 同義)なんだろうと呆れる。

 彼ら三人に対し、これ以上ないというくらいの罵倒を浴びせている週刊新潮(しかもまだ救出以前に!)は、どこの書店でも売り切れのありさまである。同じような記事を載せた週刊文春の方が売れ残っているのは、罵倒の度合がまだ甘いことが原因であったと思われる。前々日に番組で彼らの行為をかばったテレ朝の『報道ステーション』は、救出報道の視聴率で、これまで常勝を誇っていたNHKの『ニュース10』にボロ負けした。よほど視聴者たちは、あの弁護が腹に据えかねていたのだろう。あの事件以来、私が乗ったタクシーの運転手の意見、雑談の相手、喫茶店等で漏れ聞こえる会話、これ全てがあの三人への罵詈讒謗である。家族たち、支援団体の人々よ。思想信条は自由である。だが、もう少し利口に周囲を読め。自分たちがいま、日本中の、それもお上ではない、あなたがたが味方と思っている一般国民の憎悪を、一身に浴びていることを理解せよ。ひょっとして、政府はいまなら、あなたがた市民活動家を、日本から一掃さえできるだけの立ち位置にいるかも知れないのである。

 高遠さんという人の家は資産家だそうである。なればこそ、三十いくつにもなった娘に、就職も嫁入りもさせもせず、イラクの少年たちの養護に熱中させておけるのであろう。今井くんのイラク入りとて、自分で稼いだ金で行っているのではよも、なかろう。支援者たち、つまりは人の金で行っているわけである。いわば彼らは恵まれた環境・恵まれた位置にいて、ドラマチックな非日常の世界の中に身を置いているのである。それをブラウン管のこちら側から見ている者たちは、日常の中に縛りつけられていて、指をくわえて見ているだけだった。彼らの活動がマスコミで伝えられるたびに、人々は、自分たちと彼らの間の“差”を思っていたはずである。彼らの“善意”“ボランティア”という金看板に、表立って誹りを投げつけるわけにはいかないが、心の底のどこかで、必ず“へっ、いいご身分だよ、稼ぎもせずに自己満足できる活動をしているんだから”というそねみ、ねたみがあった筈である。NGOの人々は、そこに今まで、まったく気がつかないでいた。自分たちの活動は崇高なもの故に、世間から善意を持って見られているはず、と思いこんでいた。今回、人質になった人のうち、郡山さんを除く他の二人は、まさにそういう妬みの目を受けるに、あつらえたかのように格好な二人であった。いわば“タマが悪すぎた”。おまけに家族の言動が、これまた世間知らずでありすぎた。今回の彼らに対する悪罵の嵐は、言ってみれば日常の、非日常に対する復讐だったと思う。この憎しみは根強い。オペラの中なら、人は非日常に喝采する。しかし、それが自分たちと同じ地平にいると気がついたとき、喝采はジェラシーに変わるのである。独裁者にとって、民衆を自在に操作できるのは共通の敵、それも恵まれた環境にある共通の敵を得たときである。それを作り出しているのは、他でもない、敵自身、すなわちあなた方自身なんである。少しはそれに気づいてくれ、頼むから。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa