裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

8日

木曜日

光学のためにお訊きしたいのですが

 このレンズの屈折率はいかほどのものですか。朝、6時45分起床。入浴の後、例により猫が浴室に入りたがる。7時半、朝食。アミールの代わりに体質水を母と半分に分けて飲む。猫にも飲ませようとK子がした(花粉症なので)が、乳酸の味が嫌いなのか、飲まなかったとか。黒豆サラダ、コンソメ、ゴマ入りパン。服薬、漢方薬い つもの二種に目の疲れをとる明目仙なるもの、亜鉛入りビール酵母。

 バス、19分カッキリに来る。順調に乗り継ぎ、9時5分、仕事場到着。留守録にし忘れていた。FAXで『創』のS編集長から、5月〆から、岡田斗司夫さんとの対談始めましょう、との提案。電話して、『社会派くん』との差別化の件を岡田さんと 話し合うのでちょっと待ってくれるよう伝える。

 朝日新聞夕刊レッツから、“萌え”についてのインタビュー依頼あり。この間から朝日新聞社からのお仕事、多々。思想信条は異なるところであるが、お仕事いただくのは有り難し。ネットで注文していた本なども次々届く。早く目を通さねばならぬも のがたまること。

 今日は『キューティーハニー』試写で1時に日比谷なので、早めとは思うが11時半に弁当使ってしまう。豚肉味噌漬け焼き。食べて12時に家を出る予定だったが、電話入ったり、雑用を思いだしたりして、時間がたってしまい、仕方なくタクシーに飛び乗る。目的地の、プリントアウトした地図などを見せようとするが、この運転手が大宮デン助みたいな顔をした爺さんで、こちらの話を全然聞かず、さっきまで乗っていた女性客がワガママであっちこっち目的地を変えてひっぱり回されて、挙げ句に“いつもより高い”などと言われて参った、というような話などをエンエンして、か なりジレる。

 なんとかワーナー試写室のある日比谷セントラルビルディング前に、15分前に着到。ロビーで日刊ゲンダイIさんに会い、13日の対談場所の地図を貰う。Iさんはこの後用事があると言うことで帰社。試写室に入ると、数人から手を振られた。加藤礼次郎、伊藤伸平、それにとり・みき氏など。もう何度も試写はやっているだろうにどうしてこう固まるか? 確認できなかったが、青井邦夫氏も来ていたらしい。加藤礼ちゃんに、河崎実監督の某作品のスケジュールのつまり具合を聞いて笑い出してしまう。このあいだ、“『宇宙猿人ゴリ』の第一話はたった25日で撮られた”という 話を紹介したが、そんなエピソードが大ゼイタクに聞こえる。

 で、『キューティーハニー』である。まず、一時間三三分という上映時間の心地よさをしみじみ感じる。何故かというと、急いで来たのでトイレに入りそこねて、上映が開始されてからシマッタと思ったのだが、余裕で我慢できたせいである。エンタテインメントとしての映画は二時間が限度。こういうパロディは九〇分。そこらが観客の精神的許容度の限界だと思う(今回もネタバレがいくつかあるが、それは大してこの映画では大きな意味はないと思うので、ちゃんと段落変えして書く)。

 とにかく、『CASSHERN』を観たときに、“あっ、ヤバいなこれは、これはこの後の『キューティー……』の点がかなり甘くなりそうだぞ”という思いがしたので、逆の意味で意識を引き締めていったのだが、しかし、やはりキリヤ・クリヤキン(ではなかった、いまだに下の名前が覚えられない)に比べれば、庵野秀明はプロである。ポップな映像、適度なディフォルメ(映像もキャラクターも)、軽快なノリ、すべり気味のところをテンポのよさですんでのところで救われているギャグなど、マンガの映像化の基本を小気味いいくらいに押さえてポンポンと話が進む。“中野貴雄が撮るのとどう違うのよ?”というような声も聞こえてこないではないが、中野監督がオタクのこだわりとして映像の底に常にひきずっている、“オシャレな一般客たちと、彼ら彼女らの感覚に対するルサンチマン”を、同じオタクであっても庵野秀明はサラリと捨てて、いわゆる(誰も言わないか)オタク・ロンダリングを成功させている。ここらが、結婚出来たオタクと出来てないオタクの差、なのかも知れぬ。

 サトエリは好きなキャラクターではないが、自己マンガ化の思い切りのよさには、“これもこれでプロだ”と感服し、むしろメガネのがんばり屋キャラ、市川実日子にちょっと萌え、ちりばめられた数々のオタクアイテム(ナゾー・タワーや大まんじへのオマージュなど)にニヤつく。あちこちでアクビが聞こえた『CASSHERN』に比べ、こっちはいくつかのシーンで笑い声と拍手が湧いた。営業畑の人間が多い試 写で、これは珍しいことである。

 ……などと書くと、じゃあこの『キューティーハニー』は万々歳か、と思われるか も知れないが、観終わっての感想を一言で言えば、
「こんなものは『キューティーハニー』じゃない!」
 なのである。これは、決して旧作への思い入れからリメイクを否定したがるロートル・オタクの言わでものグチや、自分たちの領域を特権化したがるSFマニアがよくいう“これはSFじゃない”といった類の横車ではない。マンガに限らず、名の通った作品を映画化した際の最も困った失敗、つまり原作をリメイクしようとして、その原作の最大のウリを抜かして作ってしまった、要するにスキヤキの材料をネギ、シラタキ、豆腐と買い回った末に、肉を忘れて帰ってきたような、そんな間抜けなイメージしか、見終わった後に残らないような仕儀になってしまっているのがこの作品なのだ。

 そもそも、原作『キューティーハニー』の、最も大事なキモ、あの作品がいまだに語り継がれるだけのインパクトを有する名作足り得ている所以というのは一体、奈辺に存するか。それは、あの作品が、完璧な男性排除の世界、女性原理のシステムで作られていたということである。これまで、時代劇やスパイもの等でも数多くあった、通俗な女性ヒーローの型をなぞる、ということで終わらせなかったのが、原作者永井 豪の鬼才たるところなのである。

 これまでの女性ヒーローというのは、いわゆる男性原理のシステムの中に、異物として入り込む、というのがパターンであった。その異物性(お色気であったり、女性特有のカンや思慮深さであったり)で男性原理で動く犯罪や陰謀のシステムを狂わせて、最後の勝利をつかむ、というのが基本設定で、たいてい、その側には彼女の恋人が、男性原理ルールの解説・指導役としてくっついていた。そのたぐいの女主人公の中ではおそらく最もシリアスな事件に巻き込まれる(しかも相方の男性は冒頭で早々と自殺してしまう)女探偵コーデリア・グレイの登場する作品のタイトルが『女には向かない職業』(P.D.ジェイムズ)であることが、それをよく物語っている。

 ところが、この『キューティーハニー』においては、女性である主人公が敵対する相手は、戦闘員以外、全てが女性の組織“パンサー・クロー”なのである。この組織がハニーの持つ空中元素固定装置を狙うのは、それがあれば宝石や毛皮など、“女性の望むものが全て簡単に手に入る”から、という理由。一応男性としてハニーを守るべきヒーロー、早見青児は単にハニーの活躍を特ダネにしたくて追いかけている新聞記者にすぎないし、ハニーの恋人はむしろ、通っていた女子校・聖チャペル学園の寮の寮で同室の秋夏子(今回の実写版の市川実日子の役名はここからとっている)で、原作では露骨なレズシーンがあるし、最後にハニーがパンサー・クローとの決着をつけるべく決心するのは、その夏子を“彼女ら”に惨殺された(ドラゴンパンサーの吐く火炎で黒こげになってしまうという無惨な死なのが実になんとも永井豪らしい)仇を討つため、なのである。そして、そのとき、本来彼女をサポートするべき男性たる 早見青児は、なんと
「オレなんかがついていっても足手まといになるだけだ」
 と手助けを放棄し、一人戦いの場におもむくハニーを、無事を祈って見送るだけなのだ。ここでは、これまでのドラマでの男女の役割が、完全に入れ替わっているのである。この倒錯の世界よ。自らもそこの世界の住人たる中野貴雄なら、このポイント を絶対逃しはすまい。

 東映変身ヒーローものに、初めて女性変身ヒーローであるモモレンジャーが(集団ヒーローもの『秘密戦隊ゴレンジャー』の中の一員に過ぎなかったとはいえ)登場し たのは、プロデューサーの平山亨氏の元にある日、視聴者の女の子から来た、
「友達たちと変身ごっこをやるとき、いつも女の子は怪人につかまって助け出される役しか出来なくてつまらない。私たちも怪人と戦ってやっつけたい」
 という手紙がきっかけだったという。しかし、このゴレンジャーの放映より二年も前の一九七三年に、すでにマンガの世界ではわれわれ男の子(まあ、もうそんな年でもなかったが)が、まさにこの手紙の女の子と同じ思いを『キューティーハニー』で味あわされていたのであった。この時初めて、われわれオトコノコの読者は、オンナノコたちが味わった、“自分たちの入っていけない勝負の世界を、ただ見守っているだけ”という感覚を知った。そのもどかしさの、なんとまあ、新鮮であったことよ。畢竟ずるところ、オトコノコたちにとって『キューティーハニー』の魅力と言えば、 この倒錯の魅力であった。

“冒険ものの世界はオトコノコの胎内回帰願望により形作られている閉鎖的世界である。読者の理想の女性は、「胎内」そのもの、つまり意識下の母親だけであり、それ故に外部のヒロインは本来不要なものである”と説いたのは、評論家の石上三登志である(すばる書房『男たちのための寓話』からの要約)。いまなお私がヒーロー論の最高の名著と推してやまないこの本の、たぶん最初にして唯一の否定例、しかも否定ゆえの魅力を爆発させた非定例が、この永井豪作品『キューティーハニー』なのである。その作品世界の持つ特異性は、オンナノコがオンナノコと戦う、そのシチュエー ションの徹底が生み出したものなのだ。

 だ・か・ら、ハニーと対決する組織、パンサークローの構成要員は、女性の怪人だけであった(それ故に最初のアニメ化のとき、声優をプロデュースした青二プロは、怪人役の声をアテる、ドスの利いた声を出せる女性の声優を揃えるのに大苦労したのである)。だけでなくてはならなかったのである。まさにそれこそが『キューティーハニー』の世界観を構築する必要条件だった。ここがカナメだったんである。

 そ・れ・を、自分が実写化する作品の特異な設定に気づきもしない、ノーマルなオタクである庵野秀明は、いとも簡単に否定し、敵側に、むくつけき、ではないにしろ明確なオトコ、及川光博や手塚とおるを起用してしまい、作品世界を台無しにしてしまった。シスター・ジル役までが男性俳優の篠井英介である(彼は女形だから女優のうち、というのは舞台での話であって、基本的に“お約束”が存在しない映画の世界では通用しない。これには当代最高の女形を、しかも脂の乗りきった時期にヒロインに起用して見事に失敗した板東玉三郎主演の『夜叉ヶ池』という前例がある)。あまつさえ、早見青児までを、ヒロインを見事にサポートする、どこにでもいる補助役の万能型ヒーローにしてしまうに至っては、何をかいわんや。最もこの作品の中で光っていたのが、レズっぽさの濃厚なコバルトクロー(小日向しえ)との対決シーンであ ることも、当然と言えば当然、異とするに足りないのである。

 思えば庵野監督の『新世紀エヴァンゲリオン』という作品は、“ヒーローらしく戦うヒロイン”アスカ・レイと、“ヒーローになることを拒否し続けるヒーロー”碇シンジという組み合わせの特異さによって話題となった作品であった。だが、それらはあくまで、“ヒーローらしいヒーロー”の存在を当然とした上でのアンチテーゼでしかない。ヒーローが不在の、ヒロインだけという世界観の特異さは、庵野秀明には思考の外にあったとしか思えない。この作品が結局、一九七三年の作品を三十数年後に実写化して、三十数年前の作品よりはるかに古くさいものにしかなり得なかった理由 は、そこにあるように思えるのである。

 終わって急いで試写室を出て、地下鉄日比谷線の駅でトイレにかけこみ、ホッとひと息。キオスクの夕刊紙の見出しで、芦屋雁之助の死去を知る。地下鉄乗り継いで仕事場帰着。朝日新聞大阪支局のS氏からまた電話が入り、最後のつけ加えひとつ。これも、デスク氏が妙に熱を入れて“あれも聞け、これも入れろ”と注文を出してきた せいだとか。

 7時、幡ヶ谷経由中野行きバスに公会堂横の停留所から乗って帰宅。サントクで果物など買い物し、出たところで今夜のお客である睦月影郎さんにバッタリ。家へ来る筈が迷ってここらでウロウロしていたらしい。ちょうど出会ったのが運がよかった。案内して一緒にマンションへ。ビールがない、というので、もう一回私は戻り、今度はセブンイレブンでビール等購入、マンションにもどったら、入り口のところで、もう一人のお客さんI矢くんが、来たはいいが部屋番号を忘れて立ちつくしていた。今 夜はダブルで“運のいいところに出くわすヒト”になる。

 ビール、I矢くん持参のワイン日本、それに日本酒で、いい気分に酔う。母の料理は今日は豚肉とキュウリの薄切り中華風、蟹とホタテとチンゲンサイの煮物、唐沢家風炙り鶏(チャイナハウスとはまた違った旨さ)、焼きそば(私にはこれが最高)、あと、強いK子のリクエストに応えてメンチカツ。話もはずんで、官能小説の話、時代劇の話、今日観たキューティーハニーの話、それから芦屋雁之助の話。母は雁之助 の裸の大将は、品がなくて嫌だったという。
「小林桂樹の方がずっとよかったわ。雁之助は、いかにもわざとという感じで精薄児 のしゃべり方を模写しすぎるのよ」
 と。私もほぼ、同感。そもそもこの人は弟の小雁とのコンビでの漫才あがりであって、ツッコミが本領の人。ボケは上手くないのだ。『番頭はんと丁稚どん』の、意地悪な番頭役が出世作だったのも当然である。また、原作・脚本の花登筺が、そういう意地悪役を描かせれば天下一品に上手かった。記憶にあるのは、何か可哀相な女の子を店のみんなが助けるエピソードで、日頃意地悪ばかりしている番頭はんも協力し、最後はハッピーエンドになる。大村崑たち丁稚が“よかったな、よかったな”と喜びあっている輪の中に、今日は自分も仲間や、という思いで雁之助の番頭が入っていったとたんに、丁稚たちが全員ツーンとして向こうを向いてしまい、雁之助“アレ?”という表情、というラストの話だった。感動的なエピソードだからといって、嫌われ役にいい目をさせたりはしないというあたりのセンスが、実に光っていたのである。

 もう少し飲んでいたかったが、疲れが出て11時半ころ私はダウン。45分ころに睦月さんI矢くん、帰る。母は睦月さんを“太っているけれど、肌とかは白くてとってもキレイじゃない”と褒めていた。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa