14日
月曜日
デュポンでもニンジン
ユニクロに続き、デュポン社でも野菜を販売(もうやめます)。朝8時起床。二日酔い気味なので朝食はとらず。と、いうより、朝起きてだらだらしているうち食いそこねる。ひとり暮らしはどうも生活がダラけるな。日記つけて、資料整理したりなんだり。腸の調子もまた乱れたらしく、暮れに唇の端に出来た口唇炎が復活してしまって憂鬱。
そう言えば、この数カ月、日記に連続して夢の記録をつけているが、今朝は珍しく夢も見ずに(本当はいろいろ見ているんだろうが、夢に睡眠を破られることなしに)朝までぐっすり寝込んだ。独り寝のせいだろうか、深酒のせいか? 他人の夢の話を聞かせられるのは世にも災難、ということをよく言ってはいるが、その当人が自分の夢を日記にダラダラ書き付けるのは矛盾のようである。しかし、本人にとって夢の話というのは、ナニユエにこの俺がこんな夢を見るのか、不可解千万なことであるのでどうしても記録したくなってしまうのである。
12時半、腹も空いてきたので外出、兆楽にてギョウザとチャーハン。ここを選んだのは、カウンターに氷入りの水差しが置いてあって、いちいち頼まなくても何杯でも水が飲めるからである。宿酔いの脱水症状でノドが乾き、水を四杯も飲んだ。
出て、歩行者天国の中、ぶらぶらと道玄坂まで歩き、渋東シネタワーにて『とっとこハム太郎』を観る。ここは珍しく『GMK』のポスターの方がデカい。なんでこれを観るかというと、今回のゴジラを批評する際の重要なポイントとして、ハム太郎との併映、というのがあるからであって、これを見逃したゴジラ評はリアルタイム評としてはあまり意味がないのではないか、と思ったことと、華倫変氏の日記にこの二本立てを観にいったことが書いてあり、とにかく“ハム太郎が凄すぎて、ゴジラに関しては「面白かった」くらいでウロ覚え”“今回の試合間違いなくハム太郎の圧勝”とあり、こういう特殊感覚人(マンガ家の日記としては彼の日記と神田森莉の日記が特殊感覚表現の双璧と言えるほど面白い)にアピールするのはどういう映画か、という興味をかきたてられたからである。
それにしてもハム太郎映画、凄い人気である。1時半の上映の30分前にキップを買って並んだのだが、すでに地下のコンコースにまで行列が出来ている。もちろん、9割7分が子供連れである。アベックが3組、いた。いずれも女の子は渋谷系の可愛い子である。入場してから、それぞれの買ったパンフレットを観察したら、ハム太郎目当てが二組、あとの一組が熱心にゴジラのパンフレットを読み込んでいた。わからないのは上品な白髪の、共に60代の老夫婦がいたことで、これはどちらかの映画に息子とか孫とかが出演しているのだろうか? それとも年期の入った怪獣マニア夫婦か? パンフも買ってなかったのでよくわからん。
ガキ共の中で映画を観るのは、甘酸っぱい異様な臭気と、絶えまない奇声と、ドタドタ上映中にもかかわらず走り回り、ステージにまで登るマナーの悪さに耐えながらの難行苦行なのが常である。しかし、そこは地方とは違って渋谷の子供、何か大変おとなしく、行儀よく上映開始を待っている。もちろん、そこは子供で、隣の席の女の子は、ポップコーンを盛大にパクついていて、母親に“こぼすから気をつけてね”と言われたとたんに床にバーッと盛大にまかしていたが、それでも昔、いい年をして東映まんが祭りに通っていた頃の雰囲気とは雲泥の差である。
で、CM予告のあと、『ハムハムランド大冒険』開始。ワクワクしながらスクリーンに見入ったが、うーむ、これは何だ? いやしくも映画評論を仕事のひとつにしている身として、何かスカした分析のひとつもしなければならないのだが、ヒジョーに困ってしまう作品であった。少なくとも、これがどうして100万人動員の大ヒットを記録した作品なのか、私にはサッパリわからないのである。『クレヨンしんちゃん嵐を呼ぶモーレツ! オトナ帝国の逆襲』のように、作品として優れているとか、一連のドラえもんシリーズのようにきめ細かな職人芸的演出を見せてくれるとか、あるいは劇場版エヴァのように前衛をねらっているとかという、そういった作品ではまるでない。
では、凡庸な、テレビのヒット作を映画のスクリーンに引き延ばしただけのものなのか、というと、それも違う。回りの子供たちの様子を観察すると、彼らは一心に、スクリーンを凝視している。かといって、子供向けヒット作品の常道で、主人公たちと一緒に場内の子供たちが歌い出したり、手を叩いたりということもない。作品のノリはとにかくにぎやかでめまぐるしく、次から次へ画面が転換するのに、場内は異様な静粛さで、笑い声すら立たない。華倫変が報告している通りであった。これは、一体何だ? 何が起こっているのだ?
手を叩く、笑う、一緒に歌う、という行為は、作品の中にのめり込んではいるものの、まだ、作品と、観客である自分というものの間に一線が引かれている証拠であろう。しかし、この作品を観ている子供たちは、まるで催眠術にかけられてでもいるように、魂を吸い取られてしまっているのである。無気味、と言ってもいい光景であった。そして、それだけの内容、それだけの魅力がある作品とは、私にはどうしても思えないのである。にぎやかに話が展開するだけで、中身はほとんどゼロに近い。途中で数回、神経がマヒしたのか、ストンと落ちそうになった。これは私だけではない。隣のポップコーン娘の母親も、終わったあと“ママ、寝ちゃった”と言っていたし、斜め前のアベック(ハム太郎目当て)の、男の方も、“眠たかった〜!”と叫ぶように言っていた。オトナの理性にはこの映画、眠気をもたらす作用しかないらしい。
要するに、子供の感覚に、ダイレクトに何かを発信しているデンパ映画なのだ。そうとしか思えない。終わっても席にずっとついているので、ああ、次のゴジラも観るんだな、と思っていた親子連れが、幕がしまって10分くらいして、オモムロに立ちあがって帰りはじめる、というのも数組いた。観終わって、心神喪失状態がしばらく続いたのではないか。とにかく、アッチでもコッチでも立ち上がり帰り支度をはじめて、ゴジラ上映の時には満員だった客席が半分の人数になった。そして、映画が始まると、さっきのハム太郎とはまるで違い、上映中ずっと、子供たちの私語の声がザワザワザワザワと、カイコが葉っぱを食うように、館内に立ち続けていたのである。それは仕方なかろうが、中に混じってオトナの声までする。これはけしからん、と思いよく聞いたら、そのほとんどは、“アレ何? これどうしたの? ゴジハム出てくるの?”と言った子供の質問に答えてやっている声であった。ならば許そう。
オタクとかマニアとかカイジュウファンとかいう人々の間では、『GMK』の評判が高いのは当然のこととして、この『ハムハムランド大冒険』の出来を故意に低く得点することが多いようだ。私はそれを今まで、ゴジラ可愛さの反動であろうと思っていた。しかし、実際に観た後では、彼らの考えもよくわかる。彼らには、本当にこの話が理解できないのであろう。それは、ちっとマニアぶったりすると、どうしても映画を理性で観てしまい、そこに何らかの意味を付与することで、作品を自分の中であるべき位置に収めて安心する、という見方になってしまうからだ。この作品が持っているバッドトリップ感のオソロシサに気がつくのには、華倫変のような、特殊な神経末端を有している必要があるのではないか、と思う。もう一度、今度はそのココロガマエで観てみれば、この映画に、子供たちのように没入できるかもしれない。しかしながら、それはちと恐いし、ひょっとして、アタって吐いてしまうかもしれない。やや悩むところである。
出て、どーんと疲れたので、新宿のサウナに行き、マッサージ受ける。新しい整体師さんで、指の力が強い強い。ちょっとつままれただけで、腕が万力にはさまれたみたいに痛い。肩甲骨の裏に指を突っ込んで肩を揉んだりする。うぐー、と悲鳴をあげる。その怪力の人をして、“こんな固い肩、揉んだことがありません”と言われる。仕事疲れというよりハム疲れであろう。
一旦家に帰り、仕事続ける。K子、帰っている。田舎嫌いだからさぞログハウスの悪口が飛び出るか、と思っていたら、何か宿も料理もやたら気にいったらしく、“札幌のお母さん、長野(小諸)に住むって言わないかしら”などと言う。意外である。8時、下北沢虎の子。連休三日目だというのに空いている。レトロコレクションで買い物する。SFマガジン用のいいネタが買えた。ここの店番の女性、9時からはバイトで虎の子の店員になる。K子といろいろ話す。やはり一日別行動を取ると、その後の話題が普段の数倍になる。談生の日記に、彼の娘にコミケで
「いいかい、あたしゃコドモが大嫌いなんだよ。早く大人のオンナになりな!」
とK子が言った話が出てきた、と言ったら、
「やっぱりその後はカットしているのね。その後に“大人になって、あのクソ生意気なブラックのムスコをいじめてやるのよ!”って言ったのに」
と。酒は李白。K子は小諸で、私の出演の『本パラ!』、向こうの人たちと一緒に見たそうである。