31日
金曜日
チャカに説法
銃を振り回すな、話せばわかる。朝方まで、雨音を聞きながら熟睡。降ってしまうとかえってすっきりする。爽やかに起床、7時50分。朝食はカキフライサンド。届いた手紙などを整理。午前中にJ&JのPR誌用原稿、3枚半書き上げる。ここまでは大変に調子よかったのだが、雨があがり、またヘンな気圧になり、体調もオカシくなってくる。炭酸水飲んでガンバる。
昨日書いたコラムに三田村鳶魚の『大衆文芸評判記』を資料として引いたが、読み返してみると、著者の鳶魚が、大衆作家という存在自体をかなり低く見ていることがわかる。
「作者はこんなことも知らない。三季の御切米もわからない、米の相場も知らない。そういうものを知らない人間が、札差の話なんぞを書くのは、実に生意気千万な次第で、何ともお話にならない」
「札差と旗本衆との間柄などを、江戸のことを何も知らない人間どもが、書こうとするのが洒落臭いので、こんな時に、どういう風に取り扱うか、どんな言葉で話をするか、そんなことは大衆作家風情の知り得ることじゃない」
“生意気千万”“大衆作家風情”と、ひどい言い様である。これはいけません。鳶魚自身が正統派アカデミズムの世界から不当な差別を受け、不遇な人生を送った人物なのであるが、その彼がまた大衆作家をこのようにののしっては差別の順送りである。もともと、鳶魚の愛した江戸の読本作家たちだって、時代考証などを無視した奔放自在な話を書きまくっていたはずで、デタラメを書くのはモノカキの権利といってもいいはずである。もちろん、“あそこは間違っている。正しくはこうなのだ”とツッコミを入れるのもひとつの知的エンターテインメントなのであるが、“間違っているからこれはいかん”という主張になってくると、そこに傲岸さが生じてくる。そして、鳶魚のごとく
「こんなものを何と読むのかと思うと、大衆小説を愛読している人の気が知れない」
と投げ出して、自分の方が世の中の流れから完全に取り残されることになってしま うんである。鳶魚のファンであるだけにここらへんが残念である。
1時、神田に出かけ、ぐろりあ会古書市。新奇なものはなかったが、資料の穴を埋めるような、押えのものを2万ほど。マンガも少々あったが、買うと大量になるので今回は見送る。昨日のリベンジというわけでもないが、神保町交差点の回転寿司『うみ』で、昼食。エンガワと鴨トロ。生ビール飲んでる客が数組いて、うまそうに見えて困った。カスミ書房は今日もクローズド。
帰ってソフトマジック社の児嶋都本のオビ。40字のものを三ツばかり考えて、送る。ハローミュージックとトラッシュフェスの件、電話で話す。貧乏フェスティバルで何をするにも金がなく苦しいが、どうにか工夫してやらねばならぬ。
読売新聞夕刊に連載中の『どうなってるの時代劇』に、新感線の中島かずき氏のインタビューが載っている。去年の『阿修羅城の瞳』のことに触れているが、『大江戸ロケット』に関する言及はナシ。中島氏としては宣伝してほしくてインタビューに答えたものだと思うが。それはそうと、新感線の時代劇を三田村鳶魚翁が見たら、果してなんというであろうか。
原稿書き進み、7時に一本メール、西新宿に出てメガネを受け取り、やっと臨時用の重いレンズから開放される。レンズが横に細長いデザインなので、本などを読むときに違和感がありそう。そのあと紀伊国屋に立ち寄り、何冊か本を買う。閉店までいて、出口でK子と待ち合わせ、歌舞伎町区役所裏の、すでに年中無休朝5時まで営業とファミレス化している『かに道楽』で安いカニを食う。安いなりの味だが、それでも毛ガニの味噌はたっぷり、タラバの刺身などはトロリとしていて、なかなか旨かっ た。