26日
日曜日
かわいいかわいいリヴァイアサン
国家なんてものはままごとみたいなもんだよ。朝、7時半起床。昨日、唇の端にひさしぶりに口唇炎みたいなものが出来ていて憂鬱だったが、まあよくなったようだ。少なくとも気にならない。朝食、いつもと同じくイチジクとヨーグルト。テレビで見たキューピーコーワ・アイのCMの女優さん、最初の場面での、目が疲れて眉間に立てジワを寄せている、そのクッキリと深く刻まれた立てジワにゾクッとくる。そのあとの、シワが取れて明るく笑った顔には何にも魅力がない。自分に立てジワフェチのケがあったか、と驚く。読売新聞読書欄で東氏ヒサカタぶりに登場しているので喜ぶも、前とおんなじ調子で本のおんなじようなところをおんなじように褒めているのに呆れる。そのかたくななワンパターンぶりにはかえって感服。東浩紀という人の読書傾向が知りたい、という追っかけファンにはこれでいいのかもしれんし、東氏もそういう連中にだけ向けて書いているのかもしれんが、それにしてもレンジの狭い。
K子に電気代渡す。一般家庭の倍以上はかかっているだろう。主にエアコンの代金である。ずっと家にいて、しかもある程度快適な温度にしておかないとさっぱり進まぬ仕事をしている身の、これは必要経費なのだが。
小野伯父から電話。この日記の記述を家族が読ませているらしい。“いろいろ心配かけて……”と、今日はきわめてまとも。いつもこうだといいのだが。まあ、こちらの意見も入れて、人形などは控えめにし、協会などの活動からも徐々に手を引いて、舞台に専念したいという。それが一番。年をとったら、外へ向けての宣伝はせぬことだ。いくら宣伝したって、聞いてくれない人は聞かないし、聞いてくれる人は宣伝せずともわかっている。あまり自分の努力や芸を外に宣伝するのは、自信のない芸人の証拠である。本当にいい芸をしていれば、周囲が全部、立ち回ってくれるものだ。午前中、海拓舎用原稿構成ナオシ。章により長さにデコボコができるのは如何ともしがたし。後でならさねばいけない。
1時、プリントアウト原稿持って待ち合わせの東武ホテルに行くが、Fくん見当たらず。レストランの方とか、あちこち探すがいない。時間を間違えたか、と思い、一時間ずらしてまた来るつもりで、タワーレコードへ。『快獣ブースカ』のDVDボックスが4万5000円。思わず買ってしまう。とんだところで強盗にあった。とはいえ、白黒テレビ番組の魔力には勝てない。他に『映像の世紀』などいくつか買う。
そこで45分ほど時間費やして、東武に戻ったら、Fくん来た。1時ジャストに、喫茶コーナーの中に入って待っていたという。こっちはてっきりロビーにいると思ってしばらく待ち、ひょっとして、と喫茶部のぞいたときには、彼もまたひょっとしてと思って時間割のぞいていたりしたそうで、行き違った。まあ何にせよ、会えて結構でした。簡単にスケジュール確認して、別れる。出て、ちょうど公園通りをゲイ&レズビアンパレードが通りはじめるところ。カメラ片手に、しばらく取材撮影。キングギドラのコスプレをしているゲイがいた。両肩の上に首がひとつづつ、頭の上にチョンマゲみたいにひとつ、首が乗っている。なかなかカッコいい。ゲイの世界にもオタク趣味が進出してきたか。
路上の取材や撮影者がやたら多い。パレードそのものは信号にはばまれて超ノロノロ進行。少しダレている。やはり、ニューヨークやシドニーのような、交通規制しての大パレードには及ばない。と、いうより、こういう示威的なパレードは、日本のゲイ事情にマッチしているのだろうか? アメリカのゲイリブ運動をそのまま日本においてコピーすることに、そろそろ無理が来てはいないか? ゲイでない私があれこれ口をはさむのは僭越の沙汰だろうが、ちと、そんな感じを受けた。
アメリカ人は、個を何より大事にし、そのために他者との差別化を際立たせる。ゲイを誇ろうという運動も極めて自然に主張される。しかし、日本人のメンタリティはよくも悪くも社会性を大事にする。ゲイであること、レズであることは個人の自由として、その“個”をあからさまに主張して権利を獲得することでなく、社会のワク組みを、そういうマイノリティに優しいものに変えていき、そのなかで“普通に”暮らしていくことを、ゲイもレズも、望んでいるのではないか。いろいろ日本のゲイ関係の資料などを読むと、そう思えるのである。以前、新宿2丁目のゲイバーのママに、ゲイリブ運動をどう思うか、とたずねたとき、“彼女”は言下に、
「あのコたちにはつつしみ、ってモンがないわ。いいじゃない、何も世間さまにあたしゃゲイでござい、ってひけらかさなくても。あたしたちはあたしたち、一般ピープルは一般ピープルよ」
と切って捨てた。これが、日本的ゲイの基本的スタンスではないかと思う。
アメリカはすでにそのようなマイノリティを扱うマニュアルが出来上がってしまっている。私も女房と一緒に、以前は毎年、ニューヨークのゲイパレードを見学に行っていたのだが、1980年代にはまだ、路上の人々とパレード中のゲイたちが入り交じり、お互い交歓しあい、路上の店なども飲食物をフリーで提供したりして非常になごやかでかつ活気があり、“常識が変化していく”最前線というパワーがあった。それが90年代に入ると、規模が大きくなったかわりに交通規制などがキッチリとしかれ、朝から柵が設けられて見物客も固定され、パレード参加者とそうでない人々との間に距離が置かれてしまい、つまらなくなって、足が遠のいてしまった。アメリカにおいてそうである。日本において、個としてのゲイを声高に主張するということは、結局“囲い込み”を強化する、ということになってしまいはせぬか。路上でこの“異様な催しもの”に苦笑しながらカメラを向けている人々を見ると、何か、そんな感じを受けたことだった。
帰宅、北海道新聞連載用原稿2回目を書き、K子にメール。青山まで出て、買い物をする。夏休みも終盤で、若い連中がどっと繰り出している。帰宅、無心にトウモロコシの実をはずす。実をつぶさずに一列がきれいにポロポロとはずせると、自分ひとりでニヤリと満足の笑みをもらす。一時間ほどがところ、無念無想に実をはずす。朝の炒めものや、今夜のトウモロコシ御飯用。
8時半、帰ってきたK子と夕食。ポトフとピータン奴、それにトウモロコシ御飯。DVDで『ウルトラQ』、『ブースカ』、その他。今回のDVD化でうれしいのは、以前のビデオなどで切られていた放送禁止用語がそっくり復元されていること。それにしても、ゴローやナメゴンの回のラストは、今見返しても、“よくここでスパッと切れるなあ”と感心するしかない。