裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

23日

木曜日

春先ジャック

 いるんだよ、春先になって気候がよくなると、女を切り裂きたくなってくるってぇおかしいのが。6時45分起床、冷えること。朝食、ホタテがゆ。メールでダラさんを今日のわが家での食事会に誘う。タクシーで仕事場へ。乗ったら、ラジオからどこかで聞き覚えのある声が聞こえてきた、と思ったら立川キウイだった。鴻上尚史の番組で電話インタビュー受けていた。暮れにラジオで正月近辺の活動をインタビューされる落語家、とそれだけ聞けば大変な売れっ子である。それだけ聞けば、であるが。

 仕事場着、例によって鬱々。日記つけ、メールやミクシィのメッセージを読み、返信を。FRIDAY今年最後のネタ出し(新年用)は問題なく通る。あとは年内にコラム書くだけ。午前中は雑用と資料用読書で費やす。鶴岡から電話、オタク大賞の件と、静岡大での講義の報告。日本テレビから送られてきた『世界一受けたい授業』単 行本ゲラ、私のコーナーの分をチェックする。

 昼飯はオニギリと納豆、カップのシジミ汁。居間のエアコンがまた壊れた。もう寿命なのじゃないかと思う。手続きとしては管理人に届けてマンション管理会社に調べてもらい、それを大家(北海道の奥の方に在住)に連絡、予算に向こうがオーケーしたら修理、というダンドリなのだが、それにかかる手間が仕事とからめるとどうしようもなくめんどくさくて、なかなか腰を上げられない。鬱のせいかもしれない。来年はこの居間含めた二階(わがマンションは二階が出入口)を事務所にして、常駐の雑 用係兼事務員を置かねばダメか。

 昨日観た『Mr.インクレディブル』の感想。驚いたのは、子供映画じゃなかったことだった。この話にじわん、と来るのは、三十も半ばを超えた中年の男女である。かつて“夢”の世界だった平凡な家庭に入ったスーパーヒーローが、今度は昔みたいな悪と戦う毎日という“夢”の世界に戻るために奮闘するという話。果たしてどちらが男にとって、本当の夢の世界なのか、この二つの夢は両立できるのか? というのがテーマ。ある意味自分勝手な主人公なのだが、そうさ、男はいつもほんのちょっとだけ、自分勝手な生き物なのさ。そこらへんでの主人公の性格設定が、観客に違和感を与えない程度の絶妙なオンリーマイウェイ的レベルに設置されているあたり、やはりハリウッドは上手いなあ、と感心する。日本映画だと、こういう主人公はえてして エキセントリックな“オレについてこい”型になりがちなのである。

 ともかく、ちょうど『オトナ帝国の逆襲』がそうだったように、『ギャラクシー・クエスト』がそうだったように、この『Mr.インクレディブル』は、かつて、スーパーヒーローに自分を重ね合わせた時期を持つ、いい歳したオトナたち向けのアニメだったのだ。エンディングなど、アメリカの昔の子供たちがかつて耳にしていたであろう、“どこかで聞いた”スーパーヒーローもののテーマをジャンボパフェなみにてんこ盛りにしてごった煮にして、どうだ、とばかりブチまけている。こりゃ血沸き肉 おどりますって。

 だがこの映画はそれ以上に重いテーマを全編に通底させている。それは、もはや夢を見ることが許されなくなってしまったアメリカ社会の現実だ。ヒーローの敵はもはや怪人や宇宙人、マッド・サイエンティストなどではない。ビルから飛び降りたところをヒーローに助けられ、
「自殺する権利を奪われた」
 とヒーローを訴える、超個人主義の国と化してしまったアメリカの一般国民、つまりヒーローたちがこれまで命をかけて守ってきた人々なのである。

 これはイタい話だ。すでにしてアメリカには、誰にも通じる普遍の正義などというものはない。悪人をぶっとばせば、すぐ弁護士が飛んできて、その悪人の権利を守って主人公を糾弾する。どこの誰にも、たとえスーパーマンにさえも、絶対の正義とい う概念を背負うことは許されない。

 明るく笑える家庭ヒーローものばなしのように宣伝しておいて、子供たちにひょいと、自分たちの住んでいる国のこういう現実を呈示してみせてしまう(最後に“それでもやっぱり夢は勝つ”というエクスキューズは示してみせるけれど)制作者たちはかなり意地が悪い。さすが『シンプソンズ』を作った監督だけのことはある。彼(監督のブラッド・バード)はこの作品の前に傑作アニメ『アイアン・ジャイアント』を監督し、すでに失われた巨大ヒーローの物語を、失われた1950年代を舞台にして見事に再生してみせたが、高い評価は受けたものの、結局は単なるノスタルジアと見なされて、興行的には成功しなかった。そこでバードは今度は慎重に、夢を失った男の復活物語という、現代のロマンを軸にして、その裏に巧みに、ヒーローがヒーローでいられた時代のノスタルジアを織り込んだ。ヒーローがヒーローでいられない現代 を描くことで。

 この視点は、なにもこの作品が嚆矢というわけではない。1986年には“現代”というものにリアルに立ち向かうバットマンを描いた、フランク・ミラーの『バットマン/ザ・ダーク・ナイト・リターンズ』が発表されて大反響を呼んだし、それよりさらに前、1977年にはロバート・メイヤーによるシリアスなパロディ小説『悩みのスーパーヒーロー』(邦訳・1979年竹内書店新社/竹野徹甫訳)が発表されている。後者の冒頭は、こんな追悼文で始まる。
「ヒーローたちはすでに姿を消してしまった。
 ケネディも死んだ。ダラスで暗殺者に撃たれて。
 バットマンとロビンも死んだ。バットマン愛用のバットカーが郊外に黒人生徒を運ぶ通学バスに突っこんだのだ。
 スーパーマンもいなくなった。おそらく、クリプトンすい星がワシントンを直撃したとき、死んでしまったのだろう。
 マーベル・ファミリーは雷に打たれて死んでしまった。
 ローン・レンジャーは、彼の片腕トントがウーンデッド・ニーでのレッド・パワー(インディアンの権利回復運動)の集会から帰ってみると、背中を撃ち抜かれて死体となっていた。
(中略)
 スヌーピーも、フランス上空の戦闘中、レッド・バロンの凶弾にたおれて、消息を 断った」

 ここでの主人公、デイビッド・ブリンクリーは、ベトナム戦争以降、ニクソン辞任以降、居場所の無くなったスーパーヒーローを引退し、過去を隠して、妻と二人の娘を養うために、しがない新聞記者として暮らしている。『Mr.インクレディブル』とそっくりの設定である。別にブラッド・バードがこの本をパクったというわけではない。すでにアメリカンカルチャーの中では、スーパーヒーローはもはや、開拓時代のヒーローと同様、古き良き時代のノスタルジーの一環として扱われているのだ。

 なぜ、スーパーヒーローたちがノスタルジアに直結するのか。それは、メイヤーの書いたように、高度に政治的なシステムの支配下におかれたアメリカ社会に、もはや正義と悪の二項対立を基本理念とするスーパーヒーローたちは存在しがたいということがあるだろう。だが、そればかりだろうか。スーパーヒーローというものは、その存在自体に、ある世代以上の人間にとってはノスタルジアを誘発する要素を含んでい るのではないか。それを示唆する文章がある。

 マーベル(マーヴルって発音はどうもしっくりこない。これもノスタルジアだ)・コミックスで90年代に、『マーヴルズ』『アストロ・シティ』など、スーパーヒー ローを“現代”に登場させたコミックスのストーリィを書き続けてきたカート・ビュ シークは、スーパーマンやの“正体”を、分析した、こういう論を紹介している。
「スーパーマンは思春期の擬人化である」
 誰もが無視するようなひ弱な子供であるクラーク・ケントが、ある時を境に、誰よりも強く、誰もが凄いと感嘆するスーパーマンへと“変身”する。この変身は十代の変声期のアナロジーであり、かつ、変身後の、万能であり、性的にもモテモテ(ロイス・レーンなどに)だが、自身は性に対しストイックである(本当はまだ未体験なだけ)というスーパーマンへのあこがれは、子供にとってはまだ体験せぬ大人への変身へのアナロジーとしての魅力を持つが、また、すでに思春期を過ぎてしまった大人たちにとっては、あの、社会や周囲の人々のことを気にかけることもなく(実際は気にかけるだけの分別がまだなかっただけだが)、しかし、子供時代には出来なかった飲酒やデートなどという“世界を自分のものに出来るだけの自由(本当のところ、世界が狭いだけ)”を得た、思春期へのノスタルジーが含まれているのだ、と。ビュシーク自身はこの論を理解できるとしながらも、こういう分析にあまり意味を認めていないが、しかし、この見方はたぶん、深層意識的な分析において、正しい。そしてこれは日本のヒーローものにおいても同じことが言えるだろう。

 スーパーヒーローの衣装デザインをするエドナ・モード(モデルはハリウッドの伝説の衣装デザイナーで、『刑事コロンボ』などにも出演したイディス・ヘッドだろうと思う)の声をブラッド・バード自身が(!)アテているのを含め、お遊び満載の素敵な映画だが、ひとつ物足りないのは、インクレディブルと対峙する悪の帝王が、かつては正義の味方を目指していて、いまだにスーパーヒーローになりたがっている、コンプレックス丸出しのオタク男だという設定だ。スーパーヒーローが思春期のアナロジーであるなら、思春期には、カッコいい正義のヒーローになりたいという正の願望の他に、世界を破壊し、その王になりたいという、負の願望、スーパー・ヴァリアントへの変身願望もみな、持つはずなのだ。もっと貫禄ある、なまじのヒーローでは歯の立たない悪の帝王、ドクター・ドゥームかマグネトー、レックス・ルーサーなみの大悪役を、『Mr.インクレディブル2』ではぜひ、登場させてもらいたい。

 鬱進行がとまらず、明日〆切のフィギュア王エッセイ、書き出すテンションどうに も得られず。思いついてタントンマッサージに行き、
「揉み返しがきてもいいから、ちょっと強く揉んでください」
 と頼む。それでアドレナリンを分泌させてテンション上げようという魂胆。

 注文通りかなり強く揉み込んでくれるが、疲れで数度にわたりオチる。それはいいが、オチるたびに悪夢を見る。うなされそうになって目を覚ます。唯一悪夢でないのは、テストにいい点数を取った子に“ネパール大学からきた学位証明”を与えていた小学校の先生が、偽学位発行の罪でクビになるが、子供たちが去っていく先生に
「ネパールの学位、一生大事にします」
 と手紙を書くという感動の(?)ストーリィ。

 揉まれ終わって仕事場に帰る。思惑当たって脳内にアドレナリン充満、バリバリと書き出す。4時から6時半までの2時間半で400字詰め換算11枚を書き上げた。1時間平均4.4枚。プロのライターの最低執筆速度とされているのが1時間3枚だからだいぶ上回っている。とはいえ、多作と称されているモノカキなら同じ時間で5 枚から6枚は書くだろうから、私などものの数ではなし。

 書き上げてまたメール、ミクシィ。昨日の『やりたい放題(仮)』に誘った方々から、いずれも好反応の感想が来ていて、ホッとする。もっと嬉しいのは、誘ったが都 合で来られなかった方々からの、
「日記見て行けばよかったと思いました。この次はぜひとも」
 という声のあること。

 7時45分帰宅。唐沢家クリスマス食事会第一弾で、今日のお客はパイデザ夫妻、はれつさん、それとダラさん。初めての来宅になるダラさんをセブンイレブンの前まで迎えに行く。はれつさん持参の1987年ものワイン、ダラさん持参のワインなどで乾杯、チキンレバのパテ、くわいとハムのフリッター、春風亭昇輔から到来のカツオのたたき、ジャガイモのノエルサラダ(ただ星形に抜いたピーマンが乗っているだけ)、そして自家製ラム・クラウン。グレープシードオイルを塗って王冠型に凧糸で縛り、オーヴンで焼いたラムのあばら肉。ほとんど味付けしていないが、ジューシィ で軟らかくて、これ絶品。

 鬱状態は鬱状態なのだが、雑談、メンバーがメンバーだけに生臭い話は出ず、気軽な業界うわさ話に終始したのもよくって、K子もご機嫌で、ちょっと気分が晴れた一 夜だった。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa