27日
金曜日
ホスピタリティ礼節を知る
礼節はまず、もてなしの心から(なんかシャレというよりマジに意味が通じるような気がする)。朝、8時起床。寝床の中で週刊新潮を読む。重松清の『黒い報告書スペシャル』は、実在の事件を元に小説風にした読み物。妻と子供を殺した夫が、第一発見者のふりを偽装するが、思いがけないところで良心の呵責にさいなまれる。それはアリバイ工作として買ってきたウルトラマンの人形で、警察に抗弁している最中、ふと、そのウルトラマンの人形と目が合い、正義の味方の目が、自分をじっと見つめているような気がして、ぽとん、とその人形が手から落ちる……というストーリー。いや、小説自体はいいのだが、“ウルトラマンと目があう”ねえ。なかなか難しいのではないか。
朝食は豆サラダ。K子はまだ少し、腹具合おかしいもよう。ただし、腹は減るのだとか。読売新聞読書欄まいどまいどの大原まり子さん、岡崎京子の『ヘルタースケルター』(祥伝社)の書評の冒頭とっぱなに“奇跡のように美しい骨格以外に何も持たなかった女の子が”と主人公を紹介しておいて、その数行あとに“肉をそぎ肉を詰め/歯を抜き/あばら骨をけずって/つくった娘”という作中のナレーションを引用する。奇跡のように美しい骨格をわざわざ削ったのですか。……この矛盾が原作にあるものかどうか、そんなことはどうでもいい。本を紹介するときに、こういう、読者の神経を妙にいらだたせる、そういう引用をしてしまう無思慮さがこの人の文章には常にある、ということだ。自分の書いた原稿を、ある程度時間が立ったところで客観的に読み返す習慣があれば、ふつうこういう箇所には気がついて訂正するものではないかと思うが。
気圧は多少乱れあるも、さしたるものではなし。体調というより精神状態の不安定さが心配だったが、まず大丈夫、と1時、家を出て、銀座線京橋。ル・テアトル銀座にてこないだ風邪で見損ねた劇団☆新感線『花の紅天狗』公演最終日。途中でサンドイッチ買って、ロビーで昼食代わり。開田さんから劇団に言ってもらい、無理に席を とってもらった。最後列の真ん中あたり。
新感線の芝居については、以前の日記に(2001年3月28日)『野獣郎見参』で、その根本的な魅力と、それに伴う問題点を呈示しておいた。その後、いくつか観る機会を得た舞台でも、その印象は変わらないでいた。……要は、二転三転四転五転のドンデン返しと錯綜するストーリィが、劇団名を彷彿とさせるスピード感覚で観客をアレヨアレヨと驚かせっぱなしのまま、ラストまで引っ張っていく。その複雑怪奇なエネルギッシュさが魅力でありながら、しかしそれ故に、演技する役者たちまで、内容や自分のキャラクターが完全に把握できず、ただ流れに乗って舞台を進行させているだけという印象を観客に与えてしまう、ということである。当該の舞台は誰よりも目立つ役であった(でなくてはならなかった)主役の野獣郎までが、ストーリィにのみこまれてしまった感があって、観ていて歯がゆい気分になったものだった。商業演劇は払った代金分、楽しませてくれてアタリマエ。それを越えたナニカが、こちらとしては欲しいのだ。
今回もやはりストーリィは進行と同時に千変万化、ジェットコースター的な感覚は以前の新感線と変わらず……だが、そのストーリィを越えた、役者の存在感というものが、今回はどーん、とこちらに迫ってきて、思わず快哉を叫んでしまった。それを感じさせてくれたのが、木野花。紅天狗というのは紅天女のパロディであって、彼女の役は要するに『ガラスの仮面』の月影先生役なのであるが、ただでさえ悪ノリしなければ演じられないこの役のさらにパロディ、数層倍高いテンションとアホらしさを(たぶん)脚本家と演出家の予想を超えて演じきってしまった彼女の演技には、一言でいって愕然とした。女を捨てている、とよく女優の演技のハイテンションに対し言うが、今回は人間捨てていたんじゃないか、とさえ思う。テンションが高くなりすぎてキレないように、と胸にカラータイマーを仕込んでいる、というアホな設定が、リアリティを持ってしまうほどなのである。悪ノリ演技では新感線中ダントツの池田成志が、いいように引きずられていたのが可笑しかった。それもこれも、木野花自身が劇団の演出家であり、この役を自己パロディとして楽しみきって演じていたからだろう。楽日ということもあって、いつもよりトバしていたことももちろん、あるだろうけれど。
レギュラー陣、逆木圭一郎さんは『ウエストサイド物語』を彷彿とさせるダンスを披露、粟根まことさんは出番がちと少ない気がしたが、劇中最高のノリのナンバーで巨乳を賛美するという爆笑シーンに加え、月影先生に人間味を取り戻させるという重要な役どころで満足。ラストのコールにまでMEGUMIの水着姿の描かれた布をまとって笑いをとっていた。それから感心したのが舞台美術(堀尾幸男)。いつもは荘重豪華なセットで人を驚かす新感線だが、今回は基本的に可動性のある二枚の壁の表裏だけで場面転換を処理し、役者陣のオーバーアクトをより強調する工夫がなされて いた。いわば舞台美術の基本、である。
映画もそうだが、舞台も、われわれモノカキには、実は目の毒なのである。基本的に地味で、個人的な引きこもり作業の身にとり、集団でひとつのものを作り出していく、という映画や舞台のテンションは、隣の芝生で無闇に楽しく、充実度が高く思えてしまう。モノカキのほとんどは、そのコンプレックスを持っている。実は世界が違うのだから、うらやむ必要も何もないのだが、映画や舞台を評するモノカキの文章はつい、やっかみが混じる。とはいえ、今回の木野花の演技には、やっかみを越えた、エネルギーを貰ったような気分になった。このノリでこれからは私も文章を書いていかねば、という気にさせてもらったのである。彼女は私より十歳年上。男なら、そろそろ枯れかける年頃だが、女はこの年齢あたりからハジける。生物的な役割が果たせなくなった時点で男は人生を終えるが、女はその役割から解放されたあたりで、本当 の人生を見つけてしまうのかもしれない。
ハネ後、インフォメーションに名を名乗って、楽屋口に回してもらい、いのうえひでのりさん、中島かずきさんに“ラクおめでとうございます”と挨拶。逆木さん、粟根さんにも挨拶する。逆木さんには今度飲みましょうとお誘い。中島さんに『と学会白書ブルー』を進呈。同じく楽屋見舞いに来た、竹書房のXくんと、元・イオンのTくんにもバッタリ。Xくんには“『トリビアの泉』、こんどゴールデンですねえ!”とうらやましがられた。別段、私には何の得することもないのだが。
地下鉄で表参道まで。紀ノ国屋で明日の朝食の材料など少し買い物。帰宅、メールや留守電などチェック。原稿を少しやる。8時、タクシーで下北沢『虎の子』でK子と。K子は腹具合、まあ、治ったようだが念のため焼酎のお湯割り。私は牧水と黒龍を。隣りに座った男女、法学部関係らしく、オウム裁判の問題点などを。黙秘権の話になり、男の方、“ほら、メレンゲ警告というのあるでしょう”“メレンゲ? 違うわよ、あれはね、えーと、ミロ……”“ミロガンダでしたっけ?”“それはウルトラマンよ!”というのに吹き出すのをこらえる。ミランダ警告(ダーティハリーが銃をつきつけた相手に“お前には黙秘の権利がある。今後お前の発言はすべて証拠として裁判所に取り上げられる……”と伝えるアレ)のミランダというのは、そんなに覚えにくいものかな。私にとってミランダと言えばイメージが子供時代は『ドリトル先生航海記』のゴクラクチョウ、それから長じてはカルメン・ミランダか。なんか華やかなイメージであるが、実際はこのミランダは女性ですらなく、最初にこの警告が義務づけられるきっかけになった婦女暴行事件の犯人の浮浪者だったとか。
十時半、帰宅。キミさんから桜の花の塩漬けと石鹸(荻原さんの京都土産)を貰った。石鹸は俵屋旅館特製のもので、やたら香料成分が含まれており、試しにとK子、トイレに置く。芳香がたちまち充満して、入ってむせるような気がするほど。