14日
土曜日
ばからしい、ひやしんす
「花魁、ここの生け花、水仙かい?」(花魁言葉シリーズ第二談)。朝、8時起床。いまだ微熱っぽさは残るが、タルさは解消。昨日、麻黄附子細辛湯をのんだせいか、寝汗淋漓。パンツなど、池にでも浸かったかと思うほどグショグショ。朝食、ターキーパイ、モンキーバナナ。モンキーバナナと猿とバーナーで、モンキーバーナーナというトリノイドを……いかん、これも止まらなくなる。知事選の結果。神奈川知事選 で惨敗した田嶋陽子の談話とか、まったくわけがわからず笑える。
仕事、まずCOMIC BOXの解説文赤入れチェック。それからと学会の前回大賞(“ゆ〜こん”の時の)の完成原稿最終チェック。一カ所、つながりの悪い部分につけ加え。麻黄附子、さすがの効果でダルさはおさまり、テンションもあがるが、副作用で口の中がカラカラになる。まだ、食欲は回復せず(朝はかなり食ったが)。昼 を食べに出ようという気力が不足、というか。
朝のテレビで、繰り返し、バグダッド市内のフセイン像が引き倒される映像を流しているが、あれが実にインチキくさい。まるで蝉の抜け殻みたいな作りなんじゃと思えるほど(実際そうなのかもしれないが)簡単に倒れて、地面に転がったとき、カポーンという感じではずんだりしていた。某掲示板で、米軍がハリウッドに作らせたハリボテではないのか、などと話がはずんだ。ひょっとしたら銅像にも本物と影武者の区別があるのかもしれない。
コミカル・アルの件も含め、今回の戦争報道では情報操作、というものが戦争の大きなファクターとして注目を集めたが、しかし、考えてみれば情報操作というものにわれわれは日常でいつも接しているのである。テレビのCMや、ネットの書き込みでも。……そう言えば、月が改まって、各検索サイトも、最近の日記サイトなどを挙げるようになり、いくつか手近の人名や件名を検索してみていたら、『カンタン系』というサイトで、私の日記の“的はずれ”ぶりを大いに指摘している文章を見つけた。面白いので読んでみると、例の町山氏のTVブロスの一件(2月の日記参照)についての私の指摘が的はずれである、と言っているのであった。私は町山氏を“正義”のレッテルで片付けようとしており、それは町山氏の文章の本質を理解していないためであるという。
「町山智浩の文章は、問題のライターがユダヤ人差別をしたことを問題にしているだけじゃなくて、ハリウッドとユダヤ人の関係をしっかり文章にすることで、ハリウッド映画史をロクすっぽ知りもしないで知った口を聞いたような文章の書き手を批判している。だから、これは映画というものに対する扱われ方に町山智浩が苛立っていることだ」
という解説はご丁寧なことだが、少なくとも、このサイトの主に比べれば、私の方が町山氏とのつきあいはずっと長い。お気の毒だが、そのような主張はとっくに理解 済みである。
私のあの文章を、町山氏の記事の“内容”の批判と思いこんでいるとしたら、この人の文章読解力はどうにも情けないものである。中学生程度の理解力がありさえすれば、私の批判は内容に向けられたものではなく(そのことは何度も文中で明言している)、それを“あえてあのような形、表現、手段で”発表することに対して向けられていることがわかるはずである。氏のその文章が一見痛烈で痛快であるが故に、一旦書き手の思惑を離れ、“正義”の名のもとに文章が一人歩きしはじめた場合の危険の可能性について、私は疑念と懸念を表しているのだ。その点に関してはあの日記中でも誤解ないよう言を尽くしていると思っているし、ちゃんと理解してくれた人(町山氏の古い友人の方々も含め)からの意見も数多く貰っていることからみて、さしてわかりずらい文章だったとも思えない。まあ、それでも主意を読みとれない、それこそ中学生以下の読解力の坊やたちの批判も幾つかあることは知っていたが、そういう類のものに対しては苦笑するばかりとして、さて、このサイトの主宰者も同じかと思うと、まるきりそうでもないらしいのは、
「いや、そこら辺を踏まえたようと(原文ママ)してるのかもしれないけど、手抜きになってるんだろう」
と、少し言い切りに足踏みをしているところだ。
この、少し言いよどんだあたりがちょっと興味深かったので、この人のサイトの他の文章を読んでみて、ナンダとわかった。どうもこの人は熱烈な東浩紀氏信者であるらしく、『網状言論F改』が出たとき、いち早くそれのミスを指摘した私をうらんでいるらしい(東氏擁護のために“やおい”の定義を女オタクまでに広げようとして挫折した文章もあって、これはなかなか傑作で笑えた)。つまり、この誤読は、自分が私のあの文章をそのように誤読することにより、東浩紀をケナす奴の正体はこんなもんだ、ということを、世間にアピールし、間接的に東氏を守ろうとするためのものだと推理できるのである。この人が本当に言いたかったのは、町山氏の考えウンヌンではなく、その後に唐突にくっつく、
「東浩紀に対してオタクの歴史を知らないーとかあーだこーだ正しくない、間違えている、とか言っているひとがこーいう文章を書いてるというのは不思議だ」
という一文なのではないか。イメージ戦略である。こういうのは結構。誤読する権利だって読者の方にはあるのである。ただ、彼のサイトから、私の日記に飛んで元文をあたった人から、こいつは読解力がない、と思い込まれるのもイヤなので、そこらへんの弱気が、“手抜きになってる”と、誤読の原因をこちらに背負わせるような手配もさせている、というあたりではないか。まあ、そこまで深読みしなくても、と言われるかもしれないが、なにしろイラク戦争からこっち“情報操作、情報操作”と繰り返されてばかりいるもので、最近は何を見ても、ひとまずは裏を読んでみよう、という気になるんである。
それにしても、東浩紀氏がうらやましい。自分の著書の中のあきらかな誤りをも、このようにかばいだてして、その指摘者を追い落とそうとするような忠義なファンが大勢いる。著者の人徳の差と言われればそれまでだが、私のファンなど、例えばこの日記などにちょっとでも誤記を発見すれば、鬼の首をとったかのように掲示板に書き込んでくる、そんな連中ばかりである。……まあ、私にとってはそういう人たちこそが宝なのである。毎度、宝に向かって“言い方ってもんがあるだろう”とグチってば かりの毎日なんである。
2時、時間割にて海拓舎H社長。預けてある原稿、5月下旬発売予定とのこと。とはいえゲラがまだ手元にないのは不安である。試し読みしてもらった書店さんの意見を聞いて、よかったポイントとして挙げられた部分をもう少し書き足すことにする。2時半、時間割を出て、食欲もなかったが、なにか入れておかないとまずかろう、と 花まるで、ぶっかけうどん小一杯。280円。
それから講談社原稿にかかり、先日の紙芝居の会のことを書く。思い入れがあるものというのは、どうしても自分語りが長くなる。今回も少しバランスを失してしまったが、まあ、語りたいときには語らせておけ、と、自分の中の執筆担当が、語り担当 の言を聞きながら苦笑しているという感じ。
5時半、書き上げてメール。さてそれから急いで支度をして(せわしない一日であることよ)、中野へ。月例アニドウ上映会。加藤礼次朗氏を誘っておいたので、やや早めに出かける。原稿執筆中に、“いま、八王子で、これから行くから”と電話あった。会場行くと、私の顔を見つけたなみきたかしが、“イヨ、やはり今日は壇上でナマしゃべりだからネ、カラサワセンセイのご高評をあおがなくっちゃ……”といきなりきた。今日はメイン上映がカナダのNFBの『ピンスクリーンの技法』であり、それをなみき氏が“同時アテレコ”するのだそうである。
「やはりネ、紙芝居を追いかけてる人にはかないませんからナ」
「何をおっしゃる。しかし、杉本さんが怒ってるだろうな、と思ってねえ。マツダ映画社の企画なんぞに行って」
「そうだよオ。……けしからんです、だいたいあの松田春翠って男は本当に弁士の舞台に立った経験なんかないんです、門前の小僧ってのがあれのことで……とか、始まるよオ」
「よく聞かされたねえ、それ。電車の中でえんえん、聞かされた。しかし、自分が弁士なわけでもないんだから、杉本さんもそんなに言わんでも、と思ったな」
「まったく、困らされたもんだったねえ、ああいう変人たちには」
……とは言い条、なみきはもとより、たぶん私も、今の世の中ではもはや立派に変人の部類に入るのである。
加藤礼次朗、ちょっと遅れてやってくる。“なんでまた、八王子へ”と聞いたら、“いや、今日から学校の講師だから”と。あ、そうか、そう言えば聞いていた、日本工学院のマンガ・コミックコースで講師を勤めるのであった。ここのボスが御厨さと美で、他に福山庸治なども講師になっているという。初日なのでえらいくたびれた、とボヤいていた。“御厨さんからはまったく自由にやってくれと言われているんだけど、そう言われてもねえ”と。試しに生徒の絵のレベルを見るために人物を描かせてみたら、“北条司クラスから、サウスパークもどきの絵の奴まで、テンデンバラバラ だったんだよー。この幅のある連中を一緒に教えるんだよー”と頭を抱える。
さて、上映時間には、またもやなかの芸術小劇場の110席が満杯。なにか昔の活気を思い出しますな、という感覚である。最近の作品チョイスはごく古いもの、日本の70年代あたりのテレビアニメ、それからB級のヌルい作品数本、あとまともなもの、という感じ。今回は日本のものがグレートマジンガーから『吸血!! 恐怖のトカゲ地獄』。壇上でなみき氏
「……えー、今回自分でフィルムをつないでまして、グレートマジンガーが一番オモシロクて……いや、このトシになりますと、心から笑えるということがどんどん少な くなってくるんで、こういう作品を見ていると、本当に楽しくて」
と、ぼやきとも自慢ともつかぬトーク。今回、マイティ・ハーキュリーの第一話なんじゃないかと思うが、それも上映されて、互いの国の、決して一般には評価されないヌルヌルのこういう作品を比較して見る機会を得た。“このような大衆的作品にこそアニメ文化を根付かせる土壌を熟成させる働きを……”などというお題目を唱えるのももうドウデモイイヤ、となるくらい、見ていてリラックスできる。“なにも考え ないで見られる”ことの大事さ、である。ガキにはわかるまい。
『ピンスクリーンの技法』は、内容を見ていない人、そもそもピンスクリーンというものを知らない人、1972年当時のアートアニメ状況、などなどに知識やイメージがない人に説明するのは大作業なので、飛ばす。なみきたかしが神妙に吹き替えをしていたのが可笑しかった。しかし、懐かしい。以前の上映を私が見たのはもう20年以上前で、そのときは、あのピンスクリーンの技法がいま、目の前であかされる! と感動に打ち震えていたものだが、もう今回は、休み時間にみんななみき氏を囲んで“要するにこの記録が役にたつのは、あのピンスクリーンボードを持っている人だけだよな”“あの装置はどこに行けば買えるのかとか、どうやって作るのかとか、そこから説明してもらわんとねえ”“そもそも、ホコリを立ててはいけない、食事のときにもカバーをかぶせてから行け、なんて言っていながら、タバコをプカプカふかしてちゃいかんでしょうが”とか、もう茶々入れの嵐。あの頃のボクたちの純なタマシイはどこへ行っちゃったの、と若い頃の自分がこの情景をのぞいたら嘆き悲しむかも知 れない。いい気味である。
で、あとはパルの『スカイ・プリンセス』(王子さまのいかにも偽善っぽい顔がいい)やこないだ宮崎駿にアカデミーで負けたところが作った素晴らしい、けどつまらないアニメとかを見て、最後はアヴェリーで〆メ。『呪いの黒猫』、もう今までの人生で数百回は見ていて、なお笑えるのは、ギャグそのものの質というより、リズム感 覚なのだろう。志ん生や文楽の古典落語なのである。
加藤先生と出て、K子、ナンビョーサイト常連のみなみさんと、四人で『トラジ』へ。K子とみなみさんはフィンランド語をやってきたという。今日の上映の話、学校の話、家の話、知人友人のゴシップなど連綿と話し続ける。みなみさんは豚足食べるのは今回が初めてといい、礼ちゃんは真露にキュウリを入れるというのは初めて知った、という。案外いいトシになっても、生まれて初めての経験というのはするものである。……とか思いながら12時帰宅。メールチェックしたら、天本英世の追悼文の〆切が過ぎてます、とメール。すっかり忘れていた。急いで400字詰め3枚、書いて1時過ぎ、メールする。これだけ飲んで帰って、寝ずに原稿書いたのは、生まれて初めてではないにしろ、十年ぶりくらいではないか。