20日
金曜日
黄銅鉱だったらひとつにかける
おい八、犯人はかなりの鉱物マニアだぜ! 朝、また目が覚めてゲホゲホ。K子が“うるさい”と、せき止めのアメを持ってきてくれる。舐めていると、少しはいい感じ。『細川日記』の終戦一年ほど前のあたりを拾い読みつつ、咳の鎮まるのを待つ。7時半、起床して朝食作り。アバレンジャー、ギャグ調の回(浦沢脚本)であるが演出やや拙し。演技陣がテンポに乗り切れてない。エンディングが耳について、料理しながらアバアバアバアバ……と口ずさむ。
読売新聞読書欄、荻野アンナ氏相変わらず達者。今井和也『カタチの歴史』(新曜社)の、建築史と服飾史をどちらも“人体を包み込むもの”として連動させて論ずる着眼のユニークさを認めつつ、大胆な切り口の著書にどうしても生じがちな無理(エジプト人の腰布もピラミッドも三角だからエジプト人の形の基本は三角形だ、というような)を、唐突に登場させた“女子学生”読者に可愛らしく指摘させ、“でも、今井サン頑張ってる”とエールを送らせる。学問的な精緻さを求めるより、この本は視点のユニークさを楽しむ本なんですよ、ということをそこらへんでサラリと言っているわけだ。読売に限らないが、新聞の書評というのはとかく、紹介する本すべてを、現代の先端状況を理解するために必読の、深い意味を持った、学問的意義ある、襟を正して読むべき著作、などと紹介して、何もそうまでして時代の先端に関わる必要もない読者をヘキエキさせる傾きがある。荻野氏のように、“「考へるヒント」をくれる、愛すべき一冊である”というような、シャレっ気のある軽い勧め方は、むしろ少数派なのだ。本当の読書の楽しみは、むしろそういう読み方にあるはずなのに。
外は雨。体はなんだか熱っぽい。でも、Web現代の取材をしなくては、と、候補地をいくつかネットで調べる。一番近いところを、と思って、家から歩いて5分のところにある“北谷神社”にカメラを持っていく。NHKの関連会社が入っているビルの一角に祀られている神社で、おそらく全国の神社でも、もっともモダンな作りのところ。ビルの脇に設けられている階段が参道になるらしい。今月の言葉として、新渡戸稲造の言葉が掲げられている。クリスチャンの言葉でも平気で掲げるところが、神道の融通無碍なところというか、大雑把なところというか。薄曇だったが、高感度の フィルムだったのでまあ、大丈夫だろう。
肌寒し。青山まで行き、紀ノ国屋で買い物し、帰宅。昼は食欲なく、買ったエクレアと缶コーヒーだけで。岡田斗司夫さんから資料にする本を貸してほしいと連絡あり柳瀬くんが取りにくる。いまは個人でちょっと企画のアシスタントをしている状態らしい。ただ、もう情報が全部柳瀬くんをボトルネックにして入ってくる環境じゃないので、“何をどうしようとしているのか、さっぱりわからない状態です”とか。
週刊新潮によると『千と千尋の神隠し』、オスカーは射止めたものの、アメリカでの興業は記録的な大ゴケで、改めて日米の観客の嗜好の差を確認したにとどまったとのこと。私は、これは嗜好の差というより、アメリカ大衆の意識の健全さの反映のような気がする。あれを子供が争ってみる、あるいは親が見せようとする内容のアニメであるとは私にはどうしても思えないのである。日本の方が異常なのだ。
咳ひどし。青山で買った五虎湯をのみ、しばらく休む。『細川日記』読みつぎ。8時、夕食の準備。筍ご飯、キャベツとソーセージ煮物、白身魚と筍のマヨネーズ焼きなど。NHKスペシャル『文明の道』を見る。こういう歴史ものは好きだが、“アレクサンドロス大王”“ダレイオス三世”という名称を何の説明もなく通用させているのはどうも。“アレキサンダー”“ダリウス”でなじんでいる視聴者も多いだろう。山本夏彦が“プラハと書くときになぜ、一言「旧プラーグ」と書き添えないのか。それで記憶している世代のことを思わないのか”と言っていたが、まさに、である。原音主義というなら、そもそもダレイオスはダーラヤウァウシュでなくてはならないはず。一般に耳慣れぬ発音を使って学術的だ、と満足しているわけじゃないだろう。
その後、魚ぞうめん(ケッタイな食い物だが案外好きである)などをつつきながら007のDVDを飛ばし見。『私を愛したスパイ』を久しぶりに見る。肩が凝らないと言えばこれほど凝らない作品も珍しい。公開当時はこの作品の、大金をかけてバカバカしいSFチックなセットを作っていることに大喜びしながらも、これをスター・ウォーズ公開を控えてのお祭り気分の中での前座映画として扱っていた。思えばゼイタクな気分にひたっていた時代であったことだなあ。