裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

2日

月曜日

皮は剥がれる

 皮は剥がれる ずっとずっと昔から ただひたすらに新陳代謝したままで。朝、7時15分起床。寝汗淋漓。朝食、豆サラダひと皿。モンキーバナナ一本。小青龍湯、黄連解毒湯各一包、救心二粒、百草胃腸薬二十粒。パソコンに向かうにこめかみの血管がギウギウと音を立て、気味悪し。気圧がかなり変調の模様。各編集子諸氏には悪いが、今日は一日中仕事にならぬ予感。

 太田出版からと学会年鑑のゲラ(発表部分)届き、目を通す。自分の担当コーナーのタイトルを毎回編集者のHくんがつけているのだが、今回のタイトルが、日本語としてのまとまりがおかしいもので、最初意味がわからず、誤植か、と思った。次の瞬間、その仕掛けがわかって(発表した本の内容にひっかけた工夫のあるものだった)大笑いする。そう言えば昨日の業務連絡メールで“タイトルがもしやりすぎと思われたらおっしゃってください”と書いてあった。さっそく返信、そのメールのタイトルも、同じ工夫で書いて送る。どういう工夫かは四月末発売予定の『と学会年鑑サファ イア(仮タイトル)』を買って読むこと。

 雨、微雨なれどおやまず。その中を1時、新宿に出て、少し雑用。悪天候と言え春休みで、人出はかなり多い。昼は久しぶりにアカシアでロールキャベツを食おう、と思い、楽しみにして行くと休み。仕方ない、と変更し、王ろじのとん丼にするか、とそっちへ向かうが、そこも休み。どうもついてない。こうなると、じゃアそこらの吉野屋で、とはいかず、総武線で東中野に行き、カルビ麺定食食うが、半分残す。

 帰宅、少し頭をスッキリさせようと沢庵禅師『不動智神妙録』(講談社『禅の古典シリーズ』)などを読む。漱石の『猫』に、迷亭の伯父さんがこの書の中の語を引いて、“心を何処に置こうぞ。敵の身の動に心を置けば、敵の身の動に心を取らるゝなり。敵の太刀に心を置けば、敵の太刀に心を取らるゝなり。敵を切らんと思う所に心を置けば、敵を切らんと思う所に心を取らるゝなり……”と説教するくだりがあり、それを読んで小学生の頃からこの書の名は知っていたが、実際に読んだのは四十五近い今が初めてである。自らの心を池に浮かんだ瓢箪のように、流れに逆らわず、しかし押し沈められてもまた浮かぶ、といった自由な境地に置くことを主眼とする禅の教えは、確かに人間の理想だろう。しかし、漱石はその教えを説く伯父さんを、徳川時代の価値観を遵守して、明治の代になってもチョンマゲを切らぬ、旧弊固陋な老人として描く。この落差が人間というものの面白さであろう。沢庵自身、解説の市川白弦によれば(この解説は、読者の理解の弁にと張り切って、冒頭から森村誠一の『悪魔の飽食』を引用したり、ビキニ水爆実験の話をもってきたり、その他宮沢賢治からクラウゼウィッツまで引っ張ってきて、かえってとっ散らかった印象になってしまっているものだが)、死に当たってありとあらゆる名誉や儀式を拒否し、死後、自分の画像を描くことすら禁じ、経も読むな死後弟子と名乗るな、年譜も行状記も残すな、と命ずるなど、徹底して自分の存在自体を歴史から抹消しようとしたという。ここまでのこだわりは、とてもものにとらわれない境地とは思えない。紫衣事件に連座して流刑となったうらみをずっと忘れずに、ふてくされたままでこの世を去ったとしか考えられぬ。人間は往々にして、自らと最も隔たった理想を、まるで自らがその実践者のように口にするものだ。言論は普遍的でなければいけない、と主張する連中ほど、実は自分の殻にこもった視点しか持っていないというのと相似通っている。

 仕事にかかるが、頭は茫洋、これまでもダルかったことはあるが、ここまで体が動かないのも珍しい。クタッ、という感じでまぶたが落ちる。横になったりまた起きたりで午後いっぱい過ごす。ただ、書きかけで止まってしまっている小説の、どうにも気に入らなかった平凡な導入部を、ちょっとドラマチックにするアイデアを思いついてメモする。原稿執筆した掲載誌が届くが、やや、不快な扱い。しかし、腹も立たな かったのは『不動智神妙録』読んだ効用か。

 ネット回遊。こんなニュースを見つけた。
http://news.goo.ne.jp/news/reuters/geino/20030402/JAPAN-109877.html
 ブ“レ”トンとは何か、ブレトンとは。そりゃ確かにスペルはBretonだが、じゃあサルトル(Sartre)はサルトレか。フランス語の読みの知識云々ではなく、そもそもこのニュースの翻訳者が、一応教育を受けてこの職業についたことと思うが、Bretonと聞いても、ああ、あのシュールリアリズムの、と思い浮かべることなく、綴りをそのまま読んで書いて、なんの疑問も持たなかったのかと思うと暗澹となる。すでに人の教養の範疇に、歴史というものは入っていないのかという思いにかられるのである。8時半、まだ小雨の中、神山町『華暦』。キスとカクアジの刺身、甘味口中に染みるばかり。おでんで日本酒。もっと回るかと思ったがさほど酔わず。明日は晴れるなと、こんなところで予報が効く。奇妙な体である。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa