18日
金曜日
連れレズ草
あやしうこそものぐるほしけれ。朝、7時半起床。夢で真っ赤な血を吐いた。咳こむときの胸の痛みから、肺病を怖れていたのかもしれない。血こそ出ないが、目覚めてからしばらくは咳連発、黄土色のタンがからむ。ドロリとした気味の悪いもので、気味の悪いものが好きなこちらとしては、つい、感心してしまう。感心することもないが。朝食、K子には菜の花の炒り卵。自分には相変わらず豆サラダ。果物はふじリンゴ。少しスカスカ。
12時、外出。風邪気抜けぬまま、アルバトロスの新作『えびボクサー』試写、於片倉キャロン地下映画美学校第二試写室。頭がまだボーッとしているが、まあ試写会くらいは大丈夫だろう、と出かけたが、やはりいけません。もう片倉キャロンには何十回も足を運んでいるはずなのに、渋谷から銀座線に乗り込み、ついフラフラと新橋で降りてしまった。そして、地上の光景を“あれ、いつもと何か違うなあ”と思いつつ、フラフラ歩きながら、“なんで行き着かないんだろう”と首をひねり、二十分以上も歩き回った末に、“あ、京橋だった”と気がついた。クリーニング仕立てのグレイのワイシャツが、もう汗でグショグショのシワシワである。あわてて地下鉄に再度乗り込んで京橋。1時開始の五分前になんとかギリギリ間に合った。今日が初日だったが、44席の試写室は満員の盛況。補助が出たかも。ヌカダさん、岡田さん、鶴岡法斎、それにテリー・ドリーのガチンコ兄弟などの顔がある。
で、映画だが、これはもう、アルバトロスでなくては絶対買い付けないだろうな、という代物。現に、本国イギリスはじめ各国でお蔵入りとなり、日本が唯一の公開国らしい。以前の日記にも書いたが、ボクシングをする全長2メートルのエビ(シャコだが)の話。基本はそれだけであって、それに、かつてボクサーの夢破れた初老男とそのシャコの友情ばなしがからむ。よくこんな設定を考えついたと感心するが、考えついただけ、でもあって、話の展開もタルいし、ブラックでもないし、クライマックスの、テレビスタジオでの大暴れも、失笑が漏れる出来。せめてシャコをもう少し可愛らしく造型してくれたら、と思うが、シャコじゃ無理か。試写室全体に
「ああ、わかってたんだけどな。でも、タイトルだけで来ちゃうんだよな。オレってバカだな」
という、自嘲的な笑いが充満していた。
しかしながら、この映画の価値はまさにその“でも、来ちゃう”というところにあるだろう。私が風邪をおしてまで今日の試写初日に来たのも、“この作品を他の連中より先に観られてたまるか”という意地、にある。予想通り鶴岡が、“もしカラサワさんが来てなかったら、オレ、明日の朝一番に電話して、1時間半のこの映画のことを4時間かけて説明するつもりでしたから”と言った。ソレなのである。こういうゲテB級ものの存在意義は、つまらないところにある。つまらなくて安っぽくて、バカバカしくて、みんなが観ようとしないから、それをわざわざ観ることで、みんなに自慢が出来るのである。こういう映画を観ていると、みんなが褒める、面白い映画ばかり観ている連中が下に見えてくる。試写室から出てきた人々の顔は、みな、ホッとした、安心した顔に見えた。もし、この映画が本当に万人に面白いと思える良質な映画であれば、わざわざ来たことが無駄になる。予想通り、一発ネタのバカ映画であったという点で、来て(人より先にそれが)確認できてよかった! という、特権意識みたいなものが満足させられたのである。案外、ヒットするかもしれない。
岡田さんと二人、ガチンコ兄弟がホストのパンドレッタのコーナーにインタビューされる。岡田さん曰く“これでまたアメリの貯金を減らしたねえ”と。岡田さんはすでに体重70キロ台らしい。確かにTシャツがユルユルだった。気がついたら何にも腹に入れていない。地下鉄で青山まで出て、冷やしタヌキ一杯。
家に帰って寝転がり、昨日、ササキバラゴウ氏から送られた『新現実』を読む。ササキバラ氏の文章は、ギャルゲーを論じていつの間にか戦後民主主義にまで至るというアクロバットというか、風を論じて桶屋に至るという力技。男性という“傷つける性”としてこの世に自分が存在しながら、“傷つけあうことを拒否する”ことを人間としてのアイデンティティにして育った世代のジレンマが、そのまま戦争放棄を謳った日本国憲法を国家基盤としてきた戦後日本のジレンマと重なりあうという洞察は、この『新現実』第2号全体を通読して、私がどうも折りあえないものを感じていた、“天皇”、“憲法”といったものに対する若手インテリ諸氏のこだわりへの不審に対する答になっているような気がした。
大塚英志氏は、巻末の『「反戦」を言葉にするための根拠』で、驚くばかりの理想的平和憲法護持者としての論を展開する。北朝鮮は話してわかり合える相手ではないというのはマスコミ報道に踊らされた意見であって、そもそも現在の北朝鮮問題は日本の日韓併合に端を発するのだから、和解に努力する義務は日本側にある、と、まるで土井たか子がのりうつったかのような言を大塚氏は吐く。大塚氏を思想・言動における露悪的スタイリストと見ていた私には、これは口をあんぐりの学級委員的文章であった。そして猪瀬直樹氏の、対・北朝鮮をにらんでの日本の米英支持示唆を“困ったもんだ”と表現している。猪瀬氏を格段評価しない私でもなお、現実的な国としての対処法はまあ、それしかないだろう、と、同じようなことをこの日記で記しているが、大塚氏は政治の現実的レベルには目もくれようとしない。この雑誌は『新現実』ではなく『新理想』という誌名であったかと思ったくらいだ。世間知らずのお坊ちゃん学者ならともかく、大塚氏ともあろうものがこういう青臭い言を吐くとは、と、フシギに感じていたのが、その後でササキバラ氏の論を読んで、なるほど、と膝を打った。アイデンティティを日本国憲法(の精神)に重ね合わせている人々にとり、何より大事なのは自分を取り巻く社会・現実ではなく、自分を内部で成り立たせている基本思想そのもの、なのであろう。そして、自我をふくらましていけばいくほどに、その内骨格とも言うべき思想の脆弱さを補強する必要があり、私にとっては言語遊戯としか思えない天皇制論、憲法論などを喋々しているんだろう。それがわかったということだけで、このムック、“知り合いが書いているから”と通読してみた価値は十分にあった。
価値があったとはいえ、風邪の床の読書としてはつまらぬ。同じく送られたとり・みき氏の『猫田一金五郎の冒険』も拾い読むが、こちらの方がよほど有益な書物のように思える。そのまま、力入らず、6時ころまで寝転がったまま。夕刻、やっと起きあがって少し原稿仕事。三和出版からベギ本の座談会(ベギラマと、内田沙千佳さんとの間に私がはさまる)の件でファックス。
9時、下北沢『虎の子』。渋谷から松涛を通っていくが、60才くらいのタクシーの運転手さん“こないだ50代くらいのお客さんに、山本富士子の話をしたら、その人、山本富士子を知らないというんですよ。情けない時代ですなア”と言う。“それは情けない。44才の私ですら知ってるのに”と言うと、“エッ、まだそんなお若いんですか”と言われる。いくつくらいに見えるのか? その運転手さん、有名人のお宅マニアか、まあ商売柄なんだろうが、松涛を通りながら、あそこがもと鍋島公爵家の持ち家で、今は警視庁の官舎、あそこは国交タクシーの元・社長の家、ここは歌手の三浦洸一の家、といちいち説明をし、三浦洸一の家の前ではわざわざ車を停めて、表札の確認までさせてくれた。
『虎の子』は、外の桜の花はすっかり散ったが、店の中の幹から出た小枝に、七つ八つ、まだ花を落とさずにおり、つぼみもあと二つ、、小さくふくらんでいる。へえ、と私は見入るが、K子は“どうでもいいわよ、花なんか”とソッケない。さすが金曜でお客はひっきりなし。黒豚のハリハリがおいしかった。酒の味はまだ七分くらいしかわからぬ。