13日
日曜日
ばからしい、へありんす
「花魁、このシャンプー全然泡がたたないぜ」。朝、7時半起床。1時ころ、ノドがあまりに痛んで目が覚め、イブを一錠のんでまた寝た。7時ころには痛みはやや、おさまったが、前身タルく、微熱状態。昨日雨にあたって、風邪を貰ってきてしまったらしい。朝食作りながら『アバレンジャー』横目で見る。この番組の怪人はトリノイドと言って、植物と動物と機械をあわせたもの、という設定(もう一種類、名曲からイメージをとって作られたギガノイドというのがいる)で、バクダンデライオン(爆弾・タンポポ、ライオン)とかジシャクナゲンゴロウ(磁石・石楠花、ゲンゴロウ)とか、ザクロバキューム(ザクロ、ロバ、真空ポンプ)とかがいるが、今回のはキンモクセイカミカクシ(金木犀・イカ・神隠し)。はて、神隠してのは機械か。宮崎駿アカデミー賞受賞記念怪人か。とにかく、これだけ縛りのある設定の怪人デザインはちょっとこれまでなかったので、2ちゃんねるなどでも、トリノイドを考えようというスレッドが立ったりしているようだ。私も少し考える。イチジク・浣腸・蝶でイチジクカンチョウというのはどうかとか、ナルコユリ・柳家小三治・無政府労働者主義でこないだの談生の落語にも出てきたアナルコサンジカリズムてのもアリか、とか。
読売新聞日曜読書欄、こないだから荻野アンナ氏が新しく書評子に加わったが、実にこの人らしい飛ばし方である。長井好弘『寄席おもしろ帖』評の文章の冒頭は、
「日本で一番のゼイタクは、陽の高いうちから寄席でスルメ齧りつつ、万年同じネタの夫婦漫才、力みすぎの新人、曲独楽、紙切り、漫談とフルコースを楽しみ、最後は古典落語で江戸の夢を堪能し、夜の巷に一杯やりに行く。
日本で二番目のゼイタクは、右手に本書、左手に缶ビールで、ぬるめのお湯にじっくり漬かる」
と、こういう場所の書評にしては異例のテンション。文中の
「どこを開けても絶好のハイテンション」
というのはこの評のことではなく、紹介している本のことなのだが、それが混乱するくらい、評する文と本の内容が密着するばかりに重なり合う。そして、約百本分採録されているというネタのうちから、最も“今”っぽい柳家喬太郎のギャグをひとつ紹介して、決してこの本がロートルの寄席マニアだけのものではないことを示し、
「ホンモノを見に行きたくなる、読む寄席だ」
でポン、と〆る。そのスピード感になにか、絶頂期の林家三平の高座を見たような気分にさせられた書評であった。
それに対比するような形で隣りにおかれている大原まり子氏の書評は、これもまた この人らしいマイペース。辻井喬『桃幻記』を取り上げているが、
「中国の今を生きる、さまざまな人物を描いた短編が八本収められている」
と何の曲もなく書き出し、そのうちの三本の内容を紹介する。なんで八本のうち、この三本をあえて取り上げたのかの説明も何もない。
「文化大革命を体験した世代の漂白の感覚は、心に抱え込んだ幻からもたらされるのか。表題作には、現世と異なる時間・歴史の流れる桃源郷が現れ、主人公の社会的成功と共に忘れられていく」
少なくとも、この紹介から想像する限りでは、この『桃幻記』という作品は実に新鮮味のない、古くさいテーマを繰り返しているだけのものにしか思えない。志怪小説から幻想SFまで、いったい同類項の作品が幾つあることか。しかし、辻井喬と言えば、あの西武グループ総帥であった堤清二のペンネームであり、その彼が、このテーマで作品を描くことの意味、を指摘しなければ、少なくともこの文字数の中で読者の興味を引くことなど出来はすまい。それを通俗なゴシップ趣味だなどと退けるのは、決して読者に親切な書評ではない。書評とは、その作品を理解する上での情報を書評読者に提供するのが義務、ではないのか。
もちろん、荻野アンナのスタイルが、全ての本の書評に適応され得るかと言うと、そうはいかないだろう。しかし、荻野氏の評にあって大原氏の書評にないもの、それは“工夫”というものである。短い文章の中で、どう、その本の魅力を読者に伝え、購買意欲をかき立てさせるか。限られたスペースの中でどう、その本のポイントをかいつまむか。われわれが書評を読む楽しみは、自分たちの読書意欲をどんなやり方で刺激してくれるかという、書評子たちの工夫なのである。まさに今回の隣り合わせのレイアウトは、その工夫のある例とない例の対比を、クッキリと見せてくれた気がする。編集部の意地悪ではないか、という気も、しないではないのであるが。
風邪、時間がたつにつれ、どんどん症状が重くなる感じ。咳や下痢はないが、微熱続き、体がどうにもならない倦怠感に襲われる。横になって休むが、眠りも出来ず、ただウツラウツラ。食欲まったくなく、昼も抜かす。気力が出ないわけではなく、晩の食事の買い物にと東急本店に出かける。少しはものを入れようと、小さなスイート ポテト一個と、豆乳を買うが、それも口にする気が出ず、そのまま。
いっそ汗をダッとかけばいいのではないか、と思い、サウナに出かけてみる。案の定汗がどっと出る。その後一時間ほどマッサージしてもらうが、途中で脚がつってまいった。少しは体が軽くなったか、という気分。家に帰り、晩飯の用意。九代目桂文治のCDを聞きながら。談志がこの人の芸を
「世の中にアナクロニズムって言葉がありますがね、どこにあるか、って言ったら、ここにあり、という、まアこういう芸でしたな」
と評し、そして、
「ところが、そのね、アナクロがね、たまらない魅力なんですねエ。なんなンでしょう。やっぱり当人の……人柄というのかな、センスでしょうなア。なンだかわからない。ま、聴いてごらんなさい、不思議な芸ですからネエ」
と、さしもの談志も分析を放り投げてしまっているのが可笑しい。先ほど、この日記で“桃源郷”テーマの古くささを指摘したが、アナクロニズムにはこのような、魅力の一面も確かにあるのだ。それが果たして談志の言うような、演じ手のセンスの問題に収斂するのか、もしくはアナクロニズムというものの根本に、人を惹きつける力があるのか。私の周辺にも、九代目文治ファンは多いが、大抵、名人上手の落語を聞き尽くした末に、こういうものに“帰還”してくるようだ。アニドウの上映会で、古くてヌルいアニメに、古ダヌキ的アニメマニアたちがうるうるする現象が最近、顕著であることも思い合わせると、21世紀のキーワードは案外、このアナクロと言うこ とになりはしないか。そんな気がする。
炊事中に電話、知人からちょっと業界事情関係。私の名を使って、いろいろあちこちで騒動を起こそうとしている人がいるそうである。心配して電話をかけてきてくれた。剣呑なこと。まあ、今のところは様子見でいくから、と言っておく。
9時、帰宅したK子と晩飯。ラムチョップのニンニク醤油漬け焼き、イワシ塩焼きの梅醤油かけ、わっぱ飯など。世界のCMのDVD見ながら。しかし、缶ビール一本あけたあたりで、どうにもまた体がダルくてたまらなくなり、K子に“寝たら?”と言われる。普段はもう寝たらと言われても延々酒を飲み続ける私が、“うん、じゃあ寝る”と素直に寝室に下がったので、K子が猫に“ざう、大変!”と叫んでいた。