28日
月曜日
古い映画をみませんか・12 『ノンちゃん雲に乗る』
(新東宝/芸研)『ノンちゃん雲に乗る』倉田文人監督(1955)
映画『ノンちゃん雲に乗る』は、ノンちゃん(鰐淵晴子)がオイオイ
泣きながら池のほとりを歩くシーンがタイトルバックになっている。
なんで泣いているかというと、大好きなお母さんとお兄ちゃんが自分を
置いて東京に出かけてしまったからである。自分も東京に行きたくて、
仕方なかったのに。
なんでノンちゃんだけ連れていってもらえなかったのかというと、ノンちゃん
は体が弱いからである。そのために、転地療養で田舎に家族ぐるみ引っ越して
きていたのだった。
この転地療養というのは人間を空気のいい自然の中に置けば健康が回復する、
という自然療法思想であり、歴史は長いが、日本にその思想が根付いた
のは明治時代にドイツのベルツ博士が日本人に海水浴、日光浴などを勧め、
広めたことが大きい理由であった。葉山に皇室の御用邸としての別荘地が
創られたのはベルツの進言によるものだ。
本家ドイツではこの思想は昔から盛んで、これを発展させて、19世紀末に
ワンダーフォーゲル運動というムーブメントが起きた。ベルツ博士も
山歩きが趣味であったが、本国のそれはやがて、ドイツ青年運動と名を変え、
ヒトラーユーゲントに統合される。
それはともかく、体が弱かった(映画では呼吸器の病気と言っているが、
原作では赤痢と腎臓炎と声帯炎というトリプル・パンチであった)ノンちゃんが
田舎に越してきたのは、ベルツ博士の広めた転地療養思想が元になっているわけだ。
……と、いうことでちょっとこの映画を離れる。ベルツにはトク(徳之介)と
いう子供があったが、彼はドイツに帰国したあと、父の財産を自動車や
芝居道楽に使い果たす放蕩者になっていた。ドイツで日本の歌舞伎を
上演したりしたというから、かなりの散財をしただろうなあ、と思う。
このトクが1930年代以降、接近していたのが、ナチスドイツだった。
日本びいきで、日本の武士道に心酔していたヒムラーあたりに気に入られた
のかもしれないし、芸術関係のプロデューサーとして意識が共通する
ゲッベルスなどと肝胆相照らしたのかもしれない。ともかく、ナチスドイツと
日本の文化交流に彼が関与していた歴とした事実がある。
1937(昭和12)年3月26日、アーノルド・ファンク(ワンダー
フォーゲル思想から発生したドイツ映画独自の分野である山岳映画の
巨匠であり、ヒトラーのお抱え記録映画作家であるレニ・リーフェン
シュタールを最初に“女優として”見いだした人物)と伊丹万作に
よる日独合作映画『新しき土(ドイツ語題名『サムライの娘』)』の
完成記念式典に、日本から主演女優の原節子、制作の川喜多長政・
かしこの夫妻らが渡独した際、歓迎の席で原節子に花束を手渡したのが
ディーツ・ベルツ。トクの息子の一人であった。ちなみに、この制作者
川喜多かしこの長女である和子は、後に伊丹万作の息子・義弘と結婚する。
その結婚は不幸にして短期間に終ったが、その息子・義弘こそ、後年
日本を代表する映画監督となる伊丹十三である。
それはともかく、この『ノンちゃん雲に乗る』の、ノンちゃんの
母親役が、そのディーツ・ベルツから花束を手渡された当人の原節子
である。そして、日本からドイツへ、原をエスコートした一人が、この
映画のプロデューサーであり、原の義兄にあたる熊谷久虎。
彼は若き日の黒澤明が秘かにあこがれていたという程の、才能あふれた
映画監督であったが、この渡独でアドルフ・ヒトラーに対面し、そのカリスマに
影響を受けたのか、帰国してすぐ鴎外の『阿部一族』(1938)などという
秀作を撮ったものの、その抵抗主義的内容に自分で疑問を抱き、次第に
国粋主義にかぶれ、右翼団体『すめら塾』を結成したりして人生を傾けていった。
戦後の熊谷は、その“汚名”を雪(すす)ごうと躍起になった。
芸研という制作会社を設立し、この『ノンちゃん雲に乗る』のような
文化の香り高い作品を制作したのも、その表れだったかもしれない。
監督としても復帰して『白魚』(1953)『智恵子抄』(1957)などの
佳作を撮るが、結局、元・国粋主義者というレッテルを覆すには至らなかった。
ヒトラーにかぶれたという“過去”を払拭したい、という熊谷の
思いが、この映画のタイトルロールであるノンちゃんに、当時、
天才バイオリニスト少女として名を馳せていた鰐淵晴子を起用させた、
と言えはしないだろうか。鰐淵晴子は、日本人の父とオーストリア人
の母の間に生れた。母はかのハプスブルク王家の血を引く家柄である
という。ハプスブルク家といえば、1938年、軍事的天才である
アドルフ・ヒトラーにより赤子の手をひねるようにして併合された
オーストリアを、1918年まで支配していた一族であった。
ヒトラーは若い頃画学生として放浪していたウィーンの、ハプスブルク的
自由多民族主義が国家を退廃させると考え、当時、フランツ・ヨーゼフ
皇帝の反対を押し切って市長に就任していたカール・ルエーガーの
ユダヤ人排斥演説にかぶれ、これを模倣・発展させることで自らの
思想を先鋭化させていった。
ヒトラーは38年、ハプスブルク宮殿のバルコニーで征服者として
演説し、オーストリア支配を宣言した。熊谷にとり、ハプスブルク家の
血筋のものを主役に据えることはすなわち、ヒトラーからの決別を
意味していたのではないか。
それはまた、ナチス・ドイツとの合作映画に主演した原節子を自分が
起用するということが、“逆コース(民主化・非軍事化に逆行する
行為のこと。1950年代の流行語。『ノンちゃん雲に乗る』の中にも
鰐淵晴子のセリフで出てくる)”と言われないための安全弁でもあったろう。
考え過ぎ、と言われるかもしれないが、戦後10年という節目の年にあたり、
憲法改正運動などがさかんであった。この映画は文部省選定映画であり、
この選定を受けるためには最新の注意を払わなければいけなかったのだ。
そのため、原作をこの映画は各所で変更している。
何より大きいのは、石井桃子の原作にある、“ノンちゃんのその後”を
スッパリとカットしてしまったことだろう。
原作では、ノンちゃんのお兄ちゃんはその後軍人にとられ、出征する。
お兄ちゃんは無事に日本へ帰るが、同級生で、雲の上でも顔を合わせる
ノンちゃんのケンカ相手の長吉は、戦争に行ったきり、帰ってこない。
ここを描かないから、映画を見ただけでは、ノンちゃんが雲の上(天国)で
出会う人たちの中に、なぜ長吉がいるのかがよくわからない。あれは、
その時点から遠くない時期に、長吉が天国に召されるという“死の予告”
だったのだ。この映画が、非常によく出来てはいるが、どこか甘い“家庭映画”の
ワク内を出るものではない(現在の眼で見るとそこが価値になっていたり
もするが)のは、そのせいであろう。
……ベルツのことを忘れていた。ナチスと近づいたトク・ベルツは『新しき土』
の成功で今後は日独の映画協力が不可欠になる、と主張し、『日独映画親善使節』
の肩書を手に入れた。そして、母のハナが孫たちにと残した遺産に手をつけて
来日。もっともその頃は戦局の悪化で映画親善ももうままならなくなっており、
来日中に、かつて原節子に花束を渡した、息子のディーツも戦死している。
トクは5年の歳月を日本でなすすべもなく過し、1945(昭和20)年、
東大病院で死去した。その年に生れたのが、後にこの『ノンちゃん
雲に乗る』の映画に主演する鰐淵晴子なのであった。