4日
金曜日
古い映画をみませんか・6 【恋すれど恋すれど物語】
『恋すれど恋すれど物語』斎藤寅次郎監督(1956)
有島一郎、三木のり平の名バイプレーヤー二人がまだ若き日の主演喜劇。
長崎・唐津の長屋に住む八(有島)と留(三木)の二人が、
家老の古川緑波から南蛮わたりの新型爆薬の入ったツボを江戸に
運ぶ役割をおおせつかり、剣豪の扮装をして旅に出るという
ストーリィ。
それをねらって、豊臣の残党の山賊(榎本建一)や女スリの母子
(浪花千栄子、竜城のぼる)、ツボマニアの宿の亭主(益田喜頓)
などが彼らにつきまとい、さらにその後を事件の臭いを嗅いだ
目明しの花菱アチャコと下っぴきの堺駿二が追う。ところが
そのツボは囮の偽物で、本物は家老緑波が自ら、家来のトニー谷
と共に江戸に運んでいた。表向きは唐津藩の姫様の江戸見物だが、
その姫様も偽物で、長屋の娘・お玉を姫に仕立て上げたもの
だった。お玉は八五郎と留吉の後を追いたくて偽物の姫になる
ことを承知したのだが……というもの。
制作の宝塚映画は戦前に小林一三によって設立された会社だが
フィルム統制により閉鎖。戦後再設立され、当時の映画ブーム、
また東宝争議から逃れてきた監督たちの作品を制作することで
好況を博し、この1956年にはプールつきの新撮影所を増設
するほどの勢いを誇り、この映画にも、そのプールを使った
シーンが登場する。
原作は同名の舞台劇。菊田一夫が同年日劇の舞台にかけたもので
映画の脚本も菊田が書いている……ことになっているが、本当に
映画用に菊田が書いたのか、見ていて疑問に思った。舞台用の
脚本をそのまま映画用に手直しし、演技などはところどころ
その場で直しながら流用して撮影したものではないか。
そう思うのは、長いセリフをカット割りもなく役者がしゃべる
シーンが多いし、大事な場面の多くが映像化されることなく、
全てセリフで説明されてしまっている場面が多いからである。
浪花千栄子が揺れる船中でマクガフィン(ストーリィ進行の
タネになるもの)のツボを奪い、それを持ったまま海に落ちる
シーンなど、観客にツボの行方を意識づけるためには是非とも
絵にして見せなくてはいけないところなのだが、それも
セリフで片づけてしまっている。彼女と娘が別れてしまう
理由や、胃潰瘍で頓死する、というのも全部セリフの説明である。
舞台であれば、場面転換の後、前の場面から今の場面までの
間にあったことをセリフで説明する、というのはよくある演出
だが、それを映画でそのまんまやっちゃっているのである。
何にせよ、ギャグを丁寧に撮っていないのでせっかくの笑いが
爆笑のレベルにまで上がらない。戦後の斎藤寅次郎は戦前の
出がらしの才能しか残っていない、と常々思っているのだが、
まさにそれを実感してしまった。
まず、主人公の有島一郎(連日連夜斎、と名乗るのは当時
大ブームだった五味康祐の『柳生漣也斎』のパロディ)と
三木のり平(大和武蔵、と名乗るのはもちろん、戦艦大和と
戦艦武蔵のパロディ)の性格の描き分けがはっきりしていない
から、コンビを組ませる必然性が見えてこない。これは舞台版の
台本の登場人物をそのまま、映画会社の都合によるキャスト
に当てはめて、そのキャストに合わせた台本の書き換えをして
いないからだと思われる。
そのため、古川緑波は“袖下鳥衛門(そでのしたとりえもん)”
という、性格を現すネーミングを付されていながら、全くその名
に見合ったギャグを与えられていないし、竜城のぼるの女スリは
“にっこりお時”という名前で、にっこり笑うと財布をスリ盗る
というところからのあだ名だというのに、少しもにっこりする
シーンがない。益田喜頓の宿の亭主が、なぜツボをねらうのか、
という動機づけもあっさり過ぎてわからない。
それどころか、アチャコ・堺の目明しとその子分は、最後まで
話の中心にからんでこない。もったいないことおびただしい。
脚本の練りが杜撰だから、一番の見どころとなる二つのそっくり
なツボの争奪戦でも、浪花千栄子が本物のツボを盗み、偽物の
ツボを代わりに置いておこうとしている間に本物のツボが別の
者に盗まれる、というくだりで、最後に浪花千栄子がそれに
気づいてくやしがるシーンを入れてないから、一連のギャグに
どう決着がついたのかがよく観客に納得されない。
偽のツボの中身を“若返りの秘薬”にしているのも、意味が
大してない設定である。
斎藤寅次郎は早撮りの名人として名高かったというが、同じ
早撮りでもマキノ正博の『昨日消えた男』が、十日で撮ったとは
信じられないくらいの完成度だったのに比べ、この『恋すれど〜』
はいかにも即製、のアラが目立ちすぎる。
出演者がろくにセリフを覚えていないから噛みまくりだし、
冒頭、祭の山車の上で雪村いづみが歌うシーンの後ろにいる
お囃子の女性が、山車が揺れるのでひっくりかえりそうになり、
必死で柱にしがみついているシーンがそのまま使われている。
NG出せよそういうところは、という感じである。途中、眠く
なって困った。
……しかし。
そんな欠点だらけの映画ではあるが、この作品がカルト作品と
して記憶されるべき作品になっているのは、一にかかって、
この映画の唯一最大の映画的ギャグによるものである。
新型爆薬を長崎から江戸に運ぶ、というシチュエーション設定
は、1956年当時の原水爆ブームを反映している(アメリカ
の初の水爆実験が1954年、ソビエトのが1955年)
わけだが、冒頭で、この新型爆弾の実験を行うシーンがある。
大殿(柳家金語楼)はじめ家老の緑波やトニー谷たちが防空壕
からその実験を黒メガネをかけてのぞくのだが、防毒マスクを
つけた侍たちが立って警備していたり、兎が実験動物として
カゴに入れられたりしている。そして、カウントダウンと
共に爆発! とたんに巨大な原子雲が出現して……という
シーン。
よりにもよって、長崎という場所設定でこのギャグをやるか。
先般のBBCの不謹慎放送の比ではあるまい。当時にしたって
よく、問題にならなかったものだ。
しかも、終って殿様たちが防空壕を出て見ると、防毒マスクを
つけて立っていた二人の侍は白骨化している(カゴの中の兎と
一緒に)。黒メガネを外した殿様たちの目の周囲が爆風で飛んだ
砂埃で真っ黒になっている、というのはずいぶん細かい描写
だが、パル版の映画『宇宙戦争』(53)でもあった、当時の
原水爆実験映像ではおなじみのシーンを取り入れている。
もっとすごいのは、その後で雨が降ると、道路工事をしていた
人足たちがハゲになってしまう。”あ、放射能雨だ“というオチ。
そう、われわれの世代は死の灰が交じった雨にあたるとハゲる
と言われたのが、放射能の被害というものを具体的に教えられた
初めての記憶であったはずだ。
監督はじめスタッフに、米ソの原水爆実験に対する深い洞察や
批判精神があったとは思えない。あればこんな無神経なギャグは
やれないし、そもそもテーマですらない。とはいえ、無神経無関心
だからこそ、“いま、キャッチー(そんな言葉は当時なかった
けれど)な事象だから、ギャグにして入れてしまえ”という無責任
な意識で入れたギャグが、現在の目で見ると凄まじいインパクトと
空恐ろしくさえなる風刺と感じさせるものとなる。また、それは
最大の“時代の証言”となる。
古い映画を見る楽しみは、こういう“時の効果”を実感する
ことにある。
とにかく、このすさまじいギャグ一発で、この映画は日本喜劇
史上に残る一作になっているのである。