裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

14日

月曜日

古い映画をみませんか・8 『4Dマン』

『4Dマン』アーヴィン・S・イヤワース監督(1959年)

B級映画にありがちなことだが、映画のタイトルが本公開のときの
もの、テレビ放映、ビデオ発売のときとそれぞれ変わって、同じ
作品でも人によって呼び名が全然違ってこんがらかったりする。
この『4Dマン』も、80年代の初ビデオ化のときは『怪談壁抜け男』
(一応“4DMANの恐怖”というサブタイトルもあるがほとんど
目立たない)というひどいタイトルでのリリースであり(仕掛け人は
『死霊の盆踊り』の江戸木純らしい。なるほど)、それのせいか、
ネットでは“脱力映画”として批評している人が多い。最近出た
DVDのタイトルも『4Dマン 怪奇!壁抜け男』とそのタイトルを
踏襲している。劇団四季も『壁抜け男』を舞台にかけているし(こちら
はマルセル・エイメの幻想小説が原作)、世は壁抜けブームか?

私が推すのはテレビ放映時のタイトル『SF・4次元のドラキュラ』
である。この作品の主人公が恐れられるのは壁をスリ抜けることより、
触れた人間の時間エネルギーを吸収して老化させてしまうことの方
であるわけで、ドラキュラという比喩は的を射ている。
……もっとも、製作者たちがイメージしていたのはドラキュラでは
なく、フランケンシュタインの怪物の方だろう。
科学の力によって怪物化した男の話であり、彼が追われて逃げる途中、
水のほとりで少女に出会って話しかけられるところなど、カーロフの
映画『フランケンシュタイン』への如実なオマージュである。
そのエピソードが結末がつかずに放り出されて終ってしまって
いるのがいかにもB級で残念だが。

この作品を笑う人は特撮のチャチさやSF的設定の非科学的なところに
ツッコミを入れるようだが、この映画が1959年のものであること
を忘れてはいけない。昭和34年である。この年の他のSF映画と
いうと、日本では『宇宙大戦争』、アメリカでは『プラン・9・フロム
・アウタースペース』が有名である。つまりは、2年前、1957年の
スプートニク・ショック(ソ連がアメリカに先駆けて人工衛星の
打ち上げに成功したこと)以来、世界中どこであっても宇宙ブーム
だったのだ。全世界が宇宙に目を向けているときにドライブイン・
シアターの観客向けに四次元(4D)という用語を冠した作品を
送りだしたことはかなりの先進性があったと言っていい(原案は
プロデューサーのジャック・H・ハリス)。もちろん、その用い方は
デタラメもいいところであるが、それは日本の怪獣映画における
放射能だって同じことだ。

そして、この作品もまた、スプートニク・ショックの産物と言える。
スプートニクで先を越されたことでアメリカ国内には国民への
科学教育へのニーズが高まり、一般家庭の読者向けの科学読物が
流行した。アインシュタインの相対性理論で四次元という概念自体は
理系の人間には理解されていたろうが、それが一般に急速に普及
したのは、これら科学読物(アイザック・アシモフなどが主な書き手
であった)の成果と考えられるのである。現に四次元テーマの作品
を多く含むアンソロジー『Fantasia Mathematica』(クリフトン・
ファディマン編)がこの映画の公開前年、1958年に出版されている。

今でこそ四次元なんて言葉はドラえもんのポケットの名称で幼稚園児
まで知っているが、1959年には空想科学小説マニア(上記の
『Fantasia Mathematica』が翌59年、『第四次元の小説』として荒地
出版から翻訳刊行されている)以外の一般人の大半はそんな言葉、
耳にしたこともなかったろう。ましてや概念に至っては。
この映画の日本公開年の1963年(昭和38年)には……言葉のみは
かなり普及していたと思われる。1960年に放映されたテレビ
ドラマ『ナショナル・キッド』のオープニングに、
「四次元の世界を克服し」
というテロップ入りナレーションが入ったからだ。もっとも、当然の
ことながら、作中には四次元の概念などまるで出てこなかった。
手塚治虫が雑誌『少年』で『鉄腕アトム』に四次元から来た少年・ミーバを、
詳細な四次元の科学解説と共に登場させたのは、1966年9月である。
その年の7月にはすでに『ウルトラQ』で“四次元怪獣トドラ”が
登場しており、トドメに11月、『ウルトラマン』で“四次元怪獣
ブルトン”が登場し、ここらでわれわれはやっと何となく、四次元の
イメージを頭に刻み込んだのであった。もちろん、それまでに
ジュブナイルSFなどで福島正実や小松左京が地ならしをして
おいてくれたのであるが。

われわれが欧米のSF、ことに50年代黄金期のSF作品を評する
ときについ忘れがちなのは、日本におけるSFが少年たちと、教養
ある知的エリート層の読物として出発したのに対し、欧米、ことに
アメリカではSFはブルーカラーの読物であったということである
(D・J・スカル『マッドサイエンティストの夢』などを参照)。
そこには日々進歩していく科学に対し、それが自分たちの生活を
おびやかす存在になるのではないかという、ブルーカラー特有の
不信感が通底している。東宝特撮に、いわゆる悪のマッドサイエン
ティストがほとんど登場しないことと、洋画のB級SF映画がほぼ、
マッドサイエンティストものと同義といえる状況とを比較してみると
いい。東宝特撮でも、アメリカ資本と提携した『キングコングの逆襲』
『緯度0大作戦』にはマッド・サイエンティストが登場するのを
見れば、彼我の嗜好の差は歴然としているだろう。

とはいえ、この作品にも厳密に言えばマッドサイエンティストは
登場しない。最初にマッドサイエンティスト的実験をしている科学者
(ジェームズ・コングドン)が出てきて、実験の失敗で研究所を
丸焼けにしてしまい、クビになる。てっきり彼が主人公の4Dマン
かと思っていると、彼は同じ科学者をしている兄(ロバート・ラン
シング)の務める研究所を訪ね、雇ってもらう。実は彼は数年前、
兄の婚約者を奪ってしまった過去を持ち、袂を分かっていたのだ。
プレイボーイの弟に、研究一辺倒で面白みのない人間だと自分でも
自覚している兄は、コンプレックスを持っているが、今は彼は放射能を
シャットアウトする特殊金属カーゴナイトの研究で学会の寵児であり、
職にあぶれた弟を優越感をもって引き取る。……しかし、またしても
この弟は、兄が結婚を申込もうとしている美貌の研究者・リンダの
心を射止めてしまうのである。
恋人をとられた兄はやけ酒を飲み、弟が研究していた実験を自分の
身体で試してみる。すると、何と弟では成功しなかった、物質通り
抜けが可能な肉体に変化してしまう。実は兄の身体は度重なる放射能
の実験で脳波が強力化しており、そのために4Dマンになることが
出来たのだ。

馬鹿馬鹿しい設定、と切って捨てればそれまでだが、われわれが
50年代B級SFに惹かれるのは、まさにここにそのポイントがある。
この作品におけるサイエンス、四次元実験理論は、研究一途であった
兄に、初めて人間性の解放をもたらした。それまで、愛している女性
に告白も出来ず、みすみす彼女の心が弟に惹かれていくのも指を
くわえて見ているしかなかった兄が、物質透過能力を身につけることで
大胆になり、銀行を襲って大金をせしめるまでになる。彼女の気を
引くためでる。もちろん、すぐにその能力のマイナス面
(エネルギーを大量に消費することで老化が早まる)がわかって、
それどころではなくなるのだが、欲望を満たし、かつ両刃の剣的に
害を与える魔法の力を得た人間の“寓話”のアイテムとして、科学が
用いられている。

SF、ホラーものの特質のひとつに“寓話性”がある。一見、
たあいない化物ばなしであっても、50年代B級SF、B級ホラー
の裏には、そこに人間性を極端に抽象化したアナロジーとしての
寓話性が秘められている。『女黄金鬼』(1957)では金への
執着であり、『吸血怪獣ヒルゴンの猛襲』(1959)では男女の
愛欲であった。寓話であるが故に、それはリアリズムとは異った
立脚点を持っていた。逆に言えば、映像がチープなものであれば
あるほど、その寓意性が際立つという特徴があった。上記二作に
登場する怪物はどちらも出来の悪さで有名だが、しかし、その出来の
悪さが、作品のテーマである人間の我欲の醜さをストレートに表して
いたのである。製作費を豊富にかけ、一流のスターを器用した
怪奇映画の多くが気の抜けたような印象のものにしかならない
のはこのためである。

科学の多くはわれわれの生活を幸福にしていくものだろう。
しかし、その一方で、われわれは原水爆をはじめとして、科学に
抜き差しならない不信感をも持ち合わせている。B級SF映画に
おけるチープきわまりない“最先端科学”描写、それは、われわれ
庶民の、科学に対するささやかな批判と風刺に、結果的に成りえて
いるのである。

この作品の価値はチープなところ、B級なところにある。
例えば一流監督により大規模な製作費をかけてリメイクしても、
それはどうにもピントのぼやけたものにしかならないだろう。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa