裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

5日

土曜日

古い映画をみませんか・7 『怪談 おとし穴』

『怪談 おとし穴』島耕二監督(1968年)

20歳のとき、名画座の怪談特集でこの映画がかかり、当時つきあっていた
彼女を誘って観にいった。
モノクロの怪談映画というだけでデート映画失格だが、いや、それどころか
男女間のドロドロした関係がこれでもかと強調され、そろそろ倦怠期にかかって
いた彼女と観にいくにはこれ以上不適格な映画はないのであった。

どう考えてもフツウのサラリーマンの髪型じゃないだろう、と
いいたくなる成田三樹夫が、社長の一人娘(三條魔子)との結婚に目が
くらみ、恋人(渚まゆみ)と別れようとして逆に脅迫され、恋人を
殺す話である。
あの成田三樹夫を追いつめる渚まゆみの、恋に狂った嫉妬の演技が
凄まじいが、しかしこの映画の真の主人公は成田でも渚でもない。
幽霊描写はオーソドックスと言えばオーソドックス、交通事故で頭を打った
成田の幻覚と見える演出と考えればそこそこ新しいが、実はそんなことは
どうでもいい。

この映画の本当の主役は、冒頭で若山弦蔵のナレーションで語られる通り
舞台となる大都会の巨大ビルそのもの、である。
何百人ものサラリーマンが働く場所である”表“の顔と、空調や給排水など用の
何十本ものダクトが通り、そこに死体を隠せば何十年でも発見されないという
(まさかそんなことはないと思うが)”裏“の顔。さらに、騒がしく、華やかで
賑わしい”昼“の顔と、警備員と残業の者以外、人影のなくなり静まり返る”夜“
の顔。この、二面性を持つ近代的ビルこそ真の主人公であり、そこに働く、
表では日本の経済発展を担うエリートサラリーマン、裏では出世のために自分
の恋人を取引相手に抱かせることも厭わない我欲の塊の現代人のアナロジーに
なっている。

この映画の冒頭、カメラは大東京の活気にあふれた光景を映しだし、
そしてこの映画の公開年にオープンした霞が関ビルにパンし寄っていく。
地上36階建てのそのビルこそ1968年、高度経済成長も爛熟の気配を見せ、
GNPが世界第2位となる成果を上げた日本の発展の象徴だった(実際に
ロケに使われたビルは9階しかないものだけど)。

そう、この映画の公開時、日本は、エコノミック・アニマルと揶揄され
ながらも繁栄の絶頂を謳歌していた。ほんの数年後に襲った石油ショックに
より、バラ色の未来の夢がかき消されられることも知らずに。

……いや、国民はどこかに、そんな事態が起る予感を抱いていたのである。
栄光に彩られていると見える道には、足もとに大きな落とし穴がぽっかり
空いているという、根拠のない予感を。この『怪談 おとし穴』はまさに、
そんな時代の不安をダイレクトに表した作品なのである。早すぎた予言で
あり、予言が当たったときには誰もこの映画のことを覚えていなかった、
不幸な作品ではあるが、時代の空気をもっとも先端のところですくい取り、
映像に残したということで記憶しておいていい作品のひとつである。

成田三樹夫演ずる倉本は、定時制高校出身で、外人の家でボーイのバイト
をやりながら英語を学び、それを出世の足がかりにした。進駐軍に尻尾を
ふって敗戦の泥沼からはい上がり、見事に奇跡的復興を遂げた日本の
あまりにわかりやすい具現的キャラである。恋人の渚まゆみに、社長令嬢
との結婚は出世のための政略結婚だ、結婚なんて形式に意味はない、愛して
いるのは君だけだ、君との交際は続けるし生活の面倒も見る、だから
いいだろうと説明して、それで理解されると思い込んでいる。日本を戦後の
奇跡的復興に導いた合理主義的思考である。だが、女性の愛情は合理的思考
とはほど遠いところで動いている。恋人の出世のために外国の取引相手の
社長に肉体をまかせた渚まゆみは、その代償に欲しいのは“妻の座“だという。
自分がその座につけば恋人は出世の道から外れる、ということはわかって
いても、その権利を主張しないではいられない。そして、それを相手が
受入れると、相手の真意を疑うこともなく、素直に喜び、自分に愛が戻って
きたと信じ込む。男女の思惑は最後までスレ違い、交わることがない。
通俗的に、誇張に誇張を重ねて描かれているだけに、そのスレ違いぶりは
見ているこちらをひたすらたまらない気分にさせる。

幽霊になってからの、片目がつぶれたメイクでもわかるように、この映画は
現代版“お岩様”なのだが、四谷怪談でのお岩様がひたすら伊右衛門の仕打ち
に耐え続けるのに比べ、1968年の渚まゆみは、自らの権利を主張し、
恋人を脅迫しさえする。映画を観ている方(主に男性)に、
「早くこの女を殺してくれ!」
と内心で叫ばせるだけのしつっこさだ。これが戦後の日本が得た男女の同権
というものさ、という皮肉な笑いがスクリーンの裏から聞えてくるようだ。

最終的に成田三樹夫にストッキングで絞め殺され、首の骨を折って血へどを
はき、目を見開いて、パンツ剥き出しの姿でかつがれてパイプシャフトに
落とされる渚まゆみの“死体”熱演が演技的には最大の見どころだろう。
いつの間にか観客は、このうっとうしい女性に感情移入して、同情して
いるのに気がつく。それは形だけ近代化し、アメリカナイズした文化を謳って
も、社会の中ではいまだに男性の出世の道具にしか使われない女性への
シンパシーである。

島耕二監督はガメラの湯浅憲明監督の師匠の一人。文芸映画を撮らせて
名人の監督あるが、一方で『宇宙人東京に現る』みたいなSFやこの映画
みたいな怪談も撮ってしまう、職人監督なところもあり、それ故に名匠という
栄誉の呼称をイマイチ、得られていないところがある。しかし、こういう作品に
込められたメッセージ性を見ると、やはりただ者ではなかったんだな、という
気がする。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa