裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

25日

金曜日

古い映画をみませんか・11 『science friction』(1959)

http://www.youtube.com/watch?v=rvmXDeNGy3s

アメリカの実験映像作家スタン・バンダービークの作品。
「あれ、『モンティ・パイソン』?」
と思った人も多いことと思う。
実はこっちの方が先輩で、テリー・ギリアムはイギリスに
渡ってアニメーションを制作するとき、バンダービークの
写真コラージュ手法をモデルにした、と語っている。
こうして見ると、コラージュ手法以上にいろいろな部分を
丸々いただいている気がする。
作中、怪しげな実験をしている科学者を演じているのは
作者のバンダービーク自身で、作者が自演、というのも
モンティ・パイソンの先駆である。

タイトルの『science friction』はもちろん、『science fiction』
のもじり。『4Dマン』のときにも書いた、スプートニク・
ショックによる米ソの宇宙開発競争の激化によるfriction(摩擦・
軋轢・不和)を描いた作品である。コラージュ元として
出てくる人物に当時のアメリカ大統領アイゼンハワー、
ソビエト最高指導者フルシチョフの顔が出てくるが、もはや
若い人たちにはわからないかもしれない。

コラージュ技法は作者のバンダービークのトレードマーク
だったが、バンダービーク自身、その人生はさまざまな
要素のコラージュで成り立っているような人物だった。
大学時代には建築家のバックミンスター・フラー、音楽家の
ジョン・ケージ、バレエ振付師のマース・カニンガム等と
交流して影響を受け、前衛美術家として作品を発表、やがて
生活のためにテレビ番組のアート・ディレクターとして
働くようになり、1953年、子供向け番組『ウィンキー・
ディンク・アンド・ユー』のアニメーションを担当、大評判を
得る。この番組はホストのジャック・バリーと、アニメの
ウィンキー少年がからむ構成で(ちなみにウィンキーの声は
ベティ・ブープやオリーブ・オイルをアテたメエ・クエステル)、
これもモンティ・パイソンのアニメコントの原型かもしれない。

やがてバンダービークは実験映像の世界に戻り、写真コラージュ
手法で風刺性の強いアニメ作品を発表していたが、単なる
アニメ制作には飽き足らず、上映の方式そのものを改革しようと
ニューヨーク郊外のストーニー・ポイントにプラネタリウム式
のドーム状上映館を建てて、マルチプル映写機で天井に上映する
というような実験を繰り返していた。……現代ではむしろ単なる
奇人で片づけられてしまうかもしれないが、60年前後という
時代は、芸術、科学、全ての分野において、これまでの常識を
打ち破る発想が必要とされた時代であった。彼の映像性に興味を
示したのがベル研究所のケン・ノールトン(錯覚アートの先駆者)
で、彼はバンダービークに一緒にやらないかと声をかけ、それに
応じたバンダービークはベル研の後援を得てコンピューター・
グラフィックの研究に取り組み、世界最初期のコンピューター・
アニメーション作家となる。YouTubeにはその作品も
あるから、ぜひご覧になっていただきたい。

バンダービークは米ソの冷戦状況、宇宙開発競争を、その
作品で茶化してみせた。『science friction』の中で自身が
演じた、ジキルとハイドのパロディのような、実験を繰り返す
うちに怪物化してしまう科学者の姿は、あきらかにその
サタイアであろう。だがしかし、その彼をひろいあげ、予算を
与えて、コンピューター・グラフィックの研究を思う存分
させたのは、まさに、その宇宙開発競争のモトとなった
スプートニク・ショックだった。この時代、アメリカでは科学
研究の重要性が再認識され、各研究施設等に対する国の補助も
大幅に増額された。バンダービークのような、一種アナーキー
な男を天下のベル研が拾い上げるというのも、時代ならでは
という感じである。

思えば、60年代、チェコが人形アニメ王国としての黄金時代
を謳歌し得たのも、社会主義国家の文化優位性を世界に宣伝
するために国が文化政策の一環としてアニメ制作を優遇した
ためであった。われわれは今、トルンカやボヤールの作品の
芸術性をため息をつきながら観賞するが、その裏には複雑な
政治的思惑がからんでいる。バンダービークの作品もまた、
そういった時代的状況の中の産物と見れば、自ずと違った感慨
も浮かんでくる。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa