裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

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古い映画をみませんか・5 【不思議の国のアリス・イン・パリ】

『不思議の国のアリス・イン・パリ』ジーン・ダイチ監督(1966)
原題は『Alice of Wonderland in Paris』なんだが、邦題では
不思議の国とパリと、アリスはどっちにいるんだい? という感じ。

『トムとジェリー』で『猫はワンワン犬はニャーオ』『白いくじら』
などの、一種独特のアンニュイなムードただようエピソードを担当した
ジーン・ダイチが1966年に監督した長編アニメ。

1966年と言えばウォルト・ディズニーが死去した年であり、
そのことが象徴するかのようにアメリカアニメに転換期が訪れていた。
つまり、映画からテレビへと、アニメの主要媒体が完全に移行した時期なのである。
自社作品の質の高さを売り物にしていたディズニー・プロダクションは
そこにこだわりすぎたあまりその流れに乗り遅れ、しばらくの低迷期間に入る。
MGMスタジオはすでになく、『トムとジェリー』などの旧作をテレビで
放映することで稼いでいるだけだった。
代わって人気を博したのがハンナ=バーベラ、フィルメーション、
スティーブ・クランツ・プロといった制作会社のTVアニメ群だった。
この66年のそれぞれの制作作品としては、ハンナ=バーベラが『スーパースリー』
『宇宙怪人ゴースト』、フィルメーションが『スーパーマンの新冒険』、
スティーブ・クランツ・プロが『ロケット・ロビンフッド』。いずれも
昭和40年代後期、日本にも輸入されてわれわれの世代にはおなじみの作品群だ。

これらの作品は低予算、短期間の製作日数などの理由で極端に
動きを制限されていたが、しかし、テレビの圧倒的影響力でこれら
を見慣れた子供たちには、古いディズニー作品のフルアニメーション
がくねくねとした気味の悪いものに映るようになってしまったのも
確かである。その感覚が、劇場用作品にも影響を与え、長編であっても
動きの少ない、ナレーションとセリフでストーリィをほとんど説明
するというテレビアニメ方式で演出する作品が出現した。

この『不思議の国のアリス・イン・パリ』も、そういう時期の
作品である。製作はレンブラント・フィルム。演出のダイチはこの
時期、すでにアメリカにはいない。60年に祖国アメリカを離れ、
チェコへと移住していた。チェコはトルンカスタジオをはじめとして、
アニメーション製作に伝統を持ち、ダイチはその地でプロデューサーの
ウィリアム・スナイダーと共に、チェコのアニメーターを使って
製作したアニメをアメリカに売るという事業を始めていた。
人件費が最も大きなネックとなるアニメに、安い人件費で使え、高度な
技術を持つアニメーターが豊富なチェコは理想的な製作発注先だった。
これは日本でも1960年代末から70年代にかけ、韓国や中国に
セル画を発注していたのと同じことである。

ダイチはチェコに移った翌年、61年に短編アニメ『マンロー』で
アカデミー短編アニメ賞を受賞している。4歳で何故か陸軍に入隊
させられてしまった子供の話である。
http://www.youtube.com/watch?v=M_cH8aDlHsE

ダイチは、もともとディズニーの写実的なフルアニメーションに
対して、動画数を制限することでアニメ独自の動きを表現しようとした
リミテッド・アニメーション方式を開拓したUPA(ユナイテッド・
プロダクションズ・オブ・アメリカ)出身である。UPAがその中心人物で
あったジョン・ハブリーを50年代の赤狩りで失い、(ここにも冷戦
が影を落としている。『マンロー』を見ると、ダイチにも脈々たる
反権力の血が流れていることがわかる)衰退すると老舗のテリー・
トゥーンに移って、ここでテレビ用作品制作の基礎を作り、60年に
チェコに移住。MGMからの発注を受けて『トムとジェリー』を
13本、製作した。冒頭でダイチ版の『トムとジェリー』をアンニュイ
なムードと表現したが、あの独特の雰囲気は東欧のアニメの特性が
かもしだすものだったのだ。それは、この長編アニメにも、どこか
漂っている味である。

オープニングでラッパを吹くウサギやハンプティ・ダンプティの絵が
出てくるが、それら原作のキャラは本編ではアリス以外全く出て
こない。主人公の少女、アリスのところにやってくるのは
フランスネズミのフランソワ。彼はフランスでナンバーワンのチーズ
会社の正式社員。昔、ご先祖がこのチーズ会社の倉庫のチーズの味に
いちいち感想を書きつけたメモを残していったことから、代々この
チーズ会社のテイスターという名誉ある職を受けついでいるのだ。

彼は新市場開拓のため、アリスに好きなチーズのアンケートを
とろうとする。しかし、現代っ娘のアリスの好きなチーズは
“チーズバーガー”。なんとかアリスにフランスのチーズを好きに
なってもらおうとするフランソワは、アリスの求めに応じて、
アリスが読んでいた絵本の中の登場人物たちにアリスを会わせよう
とする……。

と、いうわけで有名な絵本の物語がフランソワやアリスによって語られる。
そっちの方が主題で、アリスとフランソワは単なる狂言回しになって
しまうのがストーリィの物足りないところであるが、これは短編アニメ
製作会社として作られたレンブラント・フィルムが最も無理なく
長編アニメを作るための工夫だったろうし、私としては子供の頃から
大好きだったジェームズ・サーバーの、皮肉に満ちた童話
『たくさんのお月さま』がアニメになっていたのが嬉しかった。

なんでチェコで作ってアメリカで公開されて、舞台がパリなのか? 
という疑問は残るが、1960年代、観光旅行ブームのアメリカ人に
とり、パリはあこがれの街だった。『シャレード』(63)『パリで
一緒に』(64)『おしゃれ泥棒』(66)など、オードリー・
ヘプバーン主演のパリを舞台にした映画が連続して公開されていたのも
この時期。アメリカはパリ・ブームだったのだ。

……だが、結局この、“劇場用作品をテレビアニメ的な方式で”
というやり方は長続きしなかった。動画枚数を極端に節約した画面は、
テレビアニメの放送時間ワクならいいが、1時間近くをスクリーンで
見るにはつらいのである。英米の劇場用長編アニメはその後、
さまざまな迷走の後、ダイチと同じくUPA出身のジョージ・ダニング
によるポップ・アート風作品『イエロー・サブマリン』(1968)
や同じくテリー・トゥーン・スタジオ出身のラルフ・バクシによる
成人向けアニメーション『フリッツ・ザ・キャット』(1972)
などで、テレビとは全く異った方向へと進化していく。ダイチによる
この作品は、その“過程”を示す位置にいる、と言えるだろう。

声の出演に『怪力アント』や『幽霊城のドボチョン一家』など、
テレビアニメの声優として有名なハワード・モリス、同じく『おばけの
キャスパー』のキャスパー役で有名なノーマ・マクミラン、他に
著名なユーモリストでテレビのバラエティなどによく出演していた
カール・ライナー(『スタンド・バイ・ミー』の監督ロブ・ライナー
の親父)など。

たあいない話ではあるが、現在の目で見てもさして違和感を感じない
ところが、さすがダイチ、と言えるところだろうか。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B003TGHWH6/karasawashyun-22

Copyright 2006 Shunichi Karasawa