23日
水曜日
古い映画をみませんか・10 『地獄変』
『地獄変』豊田四郎監督(1969年)
芥川龍之介の名作を、文芸映画の巨匠・豊田四郎が監督し、龍之介の
息子の也寸志が音楽を担当した(本人作曲のNHK大河ドラマ
『赤穂浪士』のテーマとそっくり)格調高い平安時代絵巻……で、
あるはずなのだが、妙に思想的な要素が入り込んで原作の雰囲気を
かなり変調させているのは、70年安保改定をめぐって世が騒擾して
いた公開当時の状況が、八住利雄のシナリオにかなり影響している
ことが原因。と、いうか、この時期に『地獄変』を映画化しようと
いう企画の中に、そもそも、時代性がパラレルである、というような
観点があったと思われる。
念のためおさらいしておくと、1970年に自動延長されることに
なっていた日米安全保障条約(安保条約)に反対する学生運動が
1968年ごろから盛んになり、ゲバ棒、ヘルメット姿で武装した
学生たちのデモが頻発していた。これにより世情は不安定になり、
69年1月には東大安田講堂ににたてこもった全共闘の学生らと
機動隊の大規模な衝突がおこる。やがてそれらの学生運動は分散・
過激化し、72年のあさま山荘事件などにつながっていくわけである。
スタッフたちは、この時代の状況を、貴族たちだけが繁栄を謳歌し、
庶民は塗炭の苦しみに喘いでいた平安時代の京の都に重ね合わせ
ようとしたわけである。原作にはない野党たちによる堀川の館
襲撃シーンなどが入っているのは、そういう意図によるもの
だろう。検非違使が機動隊であるわけだ。
とはいえ、69年当時、日本の庶民は決して塗炭の苦しみに
喘いでいたわけではない。それどころか、高度経済成長の爛熟期
にあたり、GNPが世界第2位になるなど、生活は右肩上がりで
よくなっていた(私の家でも、初めてカラーテレビを備えたのは
68年である)。平安時代の庶民の苦しみを描いても、そこに
感情移入は出来ないのである。
そこで八住脚本は、原作にない、絵師の良秀(仲代達矢)の出自を
描き加えた。良秀が帰化人である、という設定である。良秀は
祖国への帰還を願い出るが、堀川の大殿(中村錦之助)は
「生意気な。お前達の先祖はもとはわが国の捕虜だったのだぞ」
と許さない。あきらかにこれは在日北朝鮮人たちの帰国事業の
中断(68年から70年まで)を反映したエピソードだろう。
表面で純文芸作品に見えるこの映画、実はかなり露骨な政治映画
なのである。それも、ちょっと無理のある。
この“無理”がこの映画の整合性に、多少の歪みを与えている。
本来、善悪という概念より芸術性の方を重んじるエゴイスト、と
して描かれている原作の良秀を、平安の都の栄華の矛盾に疑問を
持ち、現実を写すことでレジストを試みる良心の徒として描いて
いるため、娘を大殿に奪われてなお、地獄絵図の屏風を描くことに
執念を燃やす狂気が唐突に感じられ、さらにその娘を生きながら
焼き殺されるという事態に正気を保っている人格が不自然に感じられ
てしまうのである。
監督の豊田四郎は、その矛盾を解決させるのに、良秀を演じる
仲代達矢に、とにかく“オーバーアクト”に演技をさせることで
観客を納得させようとしたと思われる。こういうパラノイア的人物
ならば、通常の人間心理を逸脱した行動をとってもまあ、致し方
あるまい、と観客に思わせることで疑問を封じ込めようとした
のである。
その思惑はある程度成功したといっていいだろう。目をカッ、と
見開きながら日常会話までをおどろおどろしいセリフ回しで語る
仲代を見れば、どんな無理な設定でもソンナモンカと観ている方は
納得してしまう。必然的に、仲代の相手役を務める大殿役の中村
錦之助(萬屋と改めるのはこの3年後の71年)もまた大芝居と
なり、全編、この二人のハイテンション極まる大芝居の対決が続く
映画となった。ワンパターンではあるが目力声力で押していく
仲代と、おどおどしたかと思うと次の瞬間にはカン高く笑い、
高慢になり、傲岸不遜になり、ふっと無邪気になるという、
権力者の千変万化の顔を見せる錦之助。力量ある役者同士の
演技合戦とはこういうものだ、と圧倒される経験をするだけでも、
この映画は観ておいた方がいい。なにしろ、脇に天本英世だとか
沢村いき雄だとか二見忠男だとかのクセモノがいろいろ出ているのだが、
まったくこの仲代&錦之助の前では印象に残らないくらいなのである。
地獄で苦しむ人物を描くため、良秀は弟子の金茂(内田喜郎。
『大怪獣ガメラ』でガメラに救われる灯台守の子供を演じた)
を裸にし、鎖で縛り上げ、天井から吊るし、蛇に襲わせるという
ドSな行動をとる。むっちりした内田の白い肌に鎖がからむ
このシーンにやたら力が入っているのは、ゲイであった豊田監督
の趣味全開か? そう言えば、他の監督が(あの黒澤でさえ)
可愛く撮ろうと一生懸命になっている内藤洋子を、何かおざなりに
撮っているような気がするのだが……気のせいかな?
豊田・八住のコンビは以前にも仲代達矢を伊右衛門にして『四谷
怪談』を撮って(1965)、文芸的に過ぎて少しも怖くなかった
結果に終った前科がある。それに比べると今回の『地獄変』はまだ、
ドロドロした恐怖描写は描けているかな、という感じがする。
とはいえ、やはり芸術とケレンの中間で宙ぶらりんになって
しまった感はある。
ワンシーンだけ、画面分割のシーンがある。錦之助の大殿が絵師
の仲代を見下ろしてしゃべる。答える仲代の顔が画面の右半分に
分割して映る。……すると、驚いたことに左半分にいる錦之助は、
その、分割された画面にいる仲代と視線を合わせて会話する
のである。二人の心理的対決を“絵”として見せる工夫だろう。
これがこの映画、ギリギリのケレンであった。
ラスト、錦之助が火車に追われるシーンを合成で処理しているが、
これ、ケレン派の石井輝男とか中川信夫なら、絶対セットを本当に割って、
本火を使った火の車を現出させるだろう。まあ、村木忍(美術)が承知
しないかもしれないが……。
錦之助の最期のシーンは、D・リンチの『砂の惑星』のハルコンネン
男爵みたいでよかったけれど。