31日
木曜日
観劇日記・番外「バナナ学園騒動について」
数日前から業界うちでざわざわ……となっていたこの事件、
http://urx.nu/1dP6
一般向けのネットニュースに流れるまでになったので、
全く観たこともない劇団のことではありながら、
一応考えをまとめて記しておく。
要はパフォーマンス的舞台活動を主体とする劇団の公演を
観にいった女性が、舞台上で男優に意に反してわいせつな行為
をされた、という話である。この顛末がツイッターで広まると、
当然のことながら非難が巻き起こったが、また、主にこの劇団
(カルト的な人気を得ているところらしい)のファンであろうと
思われる人たちからの反論があり、さらに
「このようなパフォーマンスは寺山修司の時代からある。
表現の自由として許容されるべき」
という演劇通(?)の意見もあって、現在それらが入り乱れ
ている、という状況である。
まずは何よりも被害者の女性にご同情を申しあげる。
その上で表明したいが、私は演劇、いや、全ての表現芸術には、
大なり小なり社会常識や規範というものに相反する性質が含まれて
いることは理解しているつもりである。ここの劇団はいけないが、
自分の表現は絶対に他者を傷つけない、などという意識は虚妄に
過ぎない。逆に、それを過剰に考えすぎるとそもそも一切の表現が
不可能になる。
「空が青いですね」
という台詞にすら、傷つく人がいる可能性はあるのだ。
しかし、その表現が演劇上の行為としてなされるとき、それは
ある種のリスクを伴ったことを認識した上での確信犯として
なされるべきだろう。敢て人の心を傷つけることで、何かを表現
する場合、傷ついた人、その表現を不快に感じた人に対しどう
対処するかも、演出企画に入ってくる。そこに無神経では表現者
としての適性を疑われるであろうし、
「かつてのアングラ演劇では……」
という言は、性的暴力に対する意識がすっかり変化した今日に
おいて全く説得力を持たない、ロートル演劇人の甘えである。
今回の事件で最も不快を感じたのは、上記ニュースサイトにも
取り上げられた、この劇団の女優(?)のツイートである。
そこには自分たちの表現行為が加害者となっている、という
ことに対する意識が全くないし、観客と出演者が互いに性的な
接触行為をしあうというノリに、どうしても参加しきれない観客が
いる、ということに対し、あまりに無神経すぎる。そもそも、
自分たちの行為を「擬似セックスのアクト」と表現し、客からの
行為を「強制猥褻」と言う、極めて身勝手な区分けを(多分無意識
に)している。これは演技者側の傲慢でしかない。一方で客を
芝居の中に参加させておいて、何かあると演技者と観客の区別
(差別)をする、というのは卑怯なダブル・スタンダードである。
この劇団のファンの人には、そういった性的解放感も含めての
混乱を、“祝祭空間”と表現している人もいる。しかし、
祝祭空間というハレの場を成立させるためには、一般社会という
ケの場との明確な線引き、隔離が必要である。今回、上記のような
事件が起こったということ自体、前もっての内容の説明などという
線引きが不十分だったということになるだろう。
個人的な意見を述べさせてもらえば、このような、観客を
巻き込んでのパフォーマンス演劇というものに、私はちょっと
懐疑的である。
演劇という文化は、ウソを楽しむ文化である。目の前で演じ
られる、あからさまなウソの演技を人々は観に、劇場に足を
運ぶ。ウソの技術を楽しむという、かなり高度な文化的行為が
現代の観劇というものである。もうちょっと言葉を飾れば、
演劇というのは、舞台の上を疑似体験空間とする芸術なのである。
そこで競われるべきは、つかまれてもいないのに胸をわしづかみ
にされたような感覚を観客に与える技術である。本当につかんで
しまってはダメなのである。それならば、役者はそこらの痴漢と
変わらないではないか。