31日
月曜日
古い映画をみませんか・4 【ビッグ・コンボ(暴力団)】
『ビッグ・コンボ』ジョゼフ・H・ルイス監督(1955)
フィルム・ノワールの神髄、のような一本。
日本公開時の題名は『暴力団』という、これまたストレートなもの。
『ゴッドファーザー』でコルレオーネに敵対するバルツィーニ家の
ドンを演じたリチャード・コンテが、ミスター・ブラウンという、
何とも平凡な名前で、自分の身の保全のためには部下でも何でも
平気で殺すボスを印象深く演じている。
なにしろ低予算のB級映画なので、ビッグ・コンボ(大組織)という
タイトルに反して、コンテの一味は副ボスのブライアン・ドンレヴィと
下っ端のリー・ヴァン・クリーフ、アール・ホリマンの4人しか
出てこない(後は警察の一斉手入れで牢屋にぶち込まれた子分たちが
出てくるが、それでも十数人)。そもそも、主人公の刑事(コーネル・
ワイルド)が捜査予算をオーバーしてまでコンテを追いつめることに
執着する、そのモトとなるコンテ一味の犯罪がどんなものかもよく
わからない。
照明の天才、ジョン・オルトンによる撮影は陰影を極端に強調し、
ほとんどの場面で画面の半分は暗くて何が映っているんだか
わからない。非常にスタイリッシュではあるが、セットやエキストラ
の数をケチるための手段ではなかったか、とも思える。
とはいえ、冒頭、夜会服を着たヒロイン、ジーン・ウォレスを
ヴァン・クリーフとホリマンが詰問するシーンでは、照明が三人の
上半身にのみ当たり、ウォレスの剥き出しの肩と腕が強調される
ため、まるで彼女が全裸にされて責められているかのように見える。
そしてラストシーン、彼女は自分を責めさいなんだコンテを、
サーチライトで追いつめ、“光”で復讐を果たすのである。
ファンタジー映画などで象徴的に語られる“光と闇の戦い”が、
ここでは超具体的に呈示される。
日本で光と影にこだわった映像作家には鈴木清順がいるが、
清順はカラー時代になり、光と影に加えて“色”をそこに取り入れざるを
得なくなる。しかし、やはり白と黒のシンプルな画面構成が与えるインパクトには
かなわない。カメラの生み出す魔術的効果というのは、やはりモノクロ
映画ならではのものなのだなあ、とつくづく感じる。
へえ、と思ったのは、コンテの取り調べに嘘発見器が使われることだ。
この映画の公開が1955年。嘘発見器は1950年代初頭から
いわゆる“赤狩り”、マッカーシズムによる共産主義者摘発に多用され
ることで広まり、悪魔の機械として恐れられていた。それを正義の側
である主人公が使うことで、追う者と追われる者の立場の相違が
不鮮明になってしまう。もちろん、あえてやっているのだ。
本作の脚本はフィリップ・ヨーダンとされているが、彼こそは
ハリウッド映画の黒歴史を代表する怪人物で、赤狩りで仕事が出来なく
なった脚本家たちに名前を貸して仕事をさせ(これを“フロント役”
という)、基本7:3の割合で脚本料を取り(もちろんヨーダンが
7である)財をなした、と言われる人物である。本作の脚本も
おそらくは別人の手になるものと思われるが、誰かはまだわかって
いない。赤狩りでハリウッドを追われた人物が、自分たちを追った
悪魔の機械である嘘発見器を主人公に使わせる、この倒錯した感情
こそ、40年代から半ばから80年代末まで、形を変化させながら冷戦ノイローゼと
して欧米を覆っていた神経症的状況の、極めて50年代的なあらわれと言えるだろう。
一方で、この嘘発見器の取り調べ風景は現代のわれわれには、
当然のことながら、同じく光と影を強調したある映画を連想させる。
リドリー・スコット監督による『ブレードランナー』(82)の、
フォークト・カンプフ測定器によるレプリカント判別のシーンである。
原作にある心理試験法を、フイゴのような蛇腹が動く、奇妙に
生物的でアヤシゲでクラシカルな装置のイメージに収斂させたのは
監督のスコットが、この映画の基調である“誰がレプリカントか
わからない”という不安感(68年に書かれた原作ではそれはもっと哲学的な
問いかけを含んだ人間存在の問題である)を50年代のアメリカに蔓延していた
“誰が共産主義者かわからない”という社会的不安感に重ねようとし、
その理不尽な分別のシンボルを嘘発見器という怪しげな機械のイメージに
重ねようとしていたからに他ならない。