裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

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観劇日記・39『大怪獣物語〜哀しみは放射能の彼方へ〜』

『大怪獣物語〜哀しみは放射能の彼方へ〜』
シノハラステージング公演
作・演出/篠原明夫
出演/永野百合香(シノハラステージング) 渡辺一哉 シバジュン(U.T.企画) 山田直樹(座◎葉隠) 川島千加子(シノハラステージング)安田莉麻(シノハラステージング) たけうちまりの(TEAMラフ) キクチハジメ(座◎葉隠) 北島洋志

於/西日暮里・戸野廣浩司記念劇場
2012年9月26日・観劇

原子炉の暴走によって崩壊した原子力発電所。だが、不思議なことに放射性物質の飛散はゼロ。一人の人間が、その放射性物質全てを自分の体内に吸い込み、巨大化して大怪獣となり、東京を襲い始めたのである。自衛隊の精鋭部隊・科学特殊攻撃隊(SPAC)は怪獣を攻撃するが、長官のタカヤマは、その攻撃を中止させる。彼は、若き日に恋した女性の面影を、その怪獣の目に見ていたのだった・・・・・・。

観終ったあと、台本を販売していたので、思わず購入してしまった。最近、滅多にない経験である。それくらい、観劇後の充足感が高かった。自己満足に流れず、ベタな笑いもたっぷりとった上で、“これが舞台だ!”というものを次々こちらにぶつけてくる。笑い、感心、涙の三要素が過不足なく、・・・・・・ではなく全て過剰気味に詰め込まれ、まず、今年の小劇場演劇体験の中ではナンバーワンのお得感ある舞台であった。

作・演出の篠原明夫は、トノヒロ(戸野廣浩司記念劇場)の狭い舞台上に、その狭さを逆手にとって、映画でもアニメでも出来ない、閉鎖空間ならではの世界を自在に紡ぎだしている。役者たちの苦労を思うと総毛立つ。なにしろ大変なセリフの量だ。長ゼリ(長い台詞)あり、数値や固有名詞がやたらはさみこまれる台詞あり。ちなみに、台本で確認したところ、冒頭のヒロインの恋の思い出語りは37文字×12行、次の原発のシーンでの所長の説明ゼリフは37文字×26行、ぎっしりつまっていた。もちろん、これ以上の長ゼリも多々、劇中にはちりばめられている。

出演者の一人、山田直樹が、終演後、知り合いに囲まれて、
「俺、29年芝居やっているけど、こんなに台詞しゃべったの初めてだよ」
としみじみ言っていた。しかも、初日に観たにも関わらず、噛みや澱みがほとんどない。しっかり稽古が重ねられていた証拠だろう。アタリマエと言えばアタリマエなのだが、小劇場演劇ではこれが出来ていない劇団も多々あるので、それだけで舞台に引き込まれてしまう。

長ゼリはただ、覚えてしゃべればいいというものではない。その台詞によって、何もない場所を“演劇空間”と変貌させる働きを持つ。ひとつひとつの単語の響き、エロキューション、呼吸の緩急の変化により、観客の生体リズムを知らず知らずのうちに同調させ、イメージを喚起し、舞台の中に引き込む役割を担っている。時間を、空間を超越し、現在から過去、小さな劇場の椅子から銀河系の彼方まで、自在に行き来できる翼を観客に与えるのが役割である。もちろん、技術と修練のいる難しいテクニックではある(役者ばかりでなく、脚本家にも高度な文才を必要とする)が、これを巧く使ったとき、観客はライブ空間の虜になる。

そして、台詞(バーバル)の演出ばかりでなく、視覚(サイト)演出もバラエティに富んでいる舞台だった。巨大怪獣は、さんざ期待させといてアレかよ!というハズし具合がいいし、パントマイムで演じられるスパックタンクの体力勝負的な動きは、見ているだけで笑いを誘う。そして、さきほど時間と空間の超越と言ったが、最後、人間と大怪獣が、サイズすら超越してしっかと抱き合うという、どんな特撮、CGでも出来ない舞台ならではの演出は、それを許容したとき、映画でもアニメでもマンガでもない、“芝居を”観たのだ、という深い満足感を観客に与えることだろう。

巨大怪獣もののパターンを踏襲しつつ、時間を遡っての男女の愛の物語にストーリィを収斂させ、裏のテーマである原発とその問題点という、時事的に微妙なテーマは、観客の立場の多様性を考えてか、ゴリ押しをしていない。ここにもちょっと感心した。

「原発の作業員には女の子しか生まれない」
などという、放射“脳”的な伏線理由などもあって、オヤオヤと苦笑したが、気にならないのは、それがうまく話の展開に取り込まれているからだ。問題提起という背伸びした考えでなく、エンタテインメントの中に無理なく組み込んであるから、作者の原発に対する姿勢には(脚本の後書きを見る限り)おそらく正反対であろう私のような観客であっても、気にならないのである。

以前、雑誌のインタビューに答えて、
「かつて日本の娯楽文化は大戦の惨害という大きな悲劇も、メロドラマやミステリの素材として取り込んでしまい、『君の名は』や『犬神家の一族』などという素晴らしい成果を生んだ。今回の震災や原発事故も、今(2012年現在)ではまだ社会感覚的に差し障りがあるが、やがてそれをうまく取り入れた、エンタテインメントの傑作が生まれるに違いない」
と語ったことがある。いまだテレビや映画などのメジャー分野では、原発事故を笑いと共に描くといったことは不可能であろう。だが、小劇場という場所は、観客数の限られた閉鎖空間であるというハンデを逆手にとって、どこよりも早く、ドラマの素材として原発問題を取り上げることを可能にした(この芝居そのものは8年前に初演されたものだが、それを今、改めて再演するということは、あの事故を踏まえてのことだろう)。

主演の永野百合香は悲劇のヒロインと、放射能を浴びて変身した大怪獣のスーツアクション(と、言ってもこれに手を加えた体のものだがhttp://item.rakuten.co.jp/kokouki/2635/)をこなして、いや、大変だったろうという感じ。そして相手役の渡辺一哉は、私もかつて何度も舞台を一緒にし、また彼の芝居を観てもいるが、その長いつきあいの中でもベストの演技をしている。万年若大将的な風貌が、回想シーンの多用で時間を前後する演出にぴったり合った。雨宿りで入ったラブホテルでの、ウブな2人のやりとりの馬鹿馬鹿しい可笑しさは最高である。

以上、少し褒め過ぎた感はある(笑)。実際には、後半で伏線が全て収拾されるあたりは詰め込み過ぎという感じで、もっと整理が必要だと思うし、中盤、冗長と思える部分もいくつかあった(全ての登場人物にドラマ性を与えないと不満が出るという小劇場演劇の宿命もある)。しかし、それで破綻をしていないのが大したもの。大盛りのカツ丼に豚汁つけたのを完食したような、腹は張ってゲップは出るが、そこが満足感につながっているという、そんな感じの舞台ではあった。

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