裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

24日

土曜日

観劇日記・22『テンペスト』ひとみ座

『テンペスト』
人形劇団ひとみ座創立60周年記念公演
原作/ウィリアム・シェイクスピア
訳/松岡和子(筑摩書房刊)
脚本・演出/藤川和人
演出協力/伊東亮 中村孝男
人形・舞台美術/高橋ちひろ
出演/プロスペロー:齋藤俊輔 山下潤子 中山一穂
   エアリエル:松本美里
   キャリバン:中村孝男 根上花子
   ミランダ:松島麗
   ファーディナンド:西田由美子
   ステファノー:伊東亮
   他
於/全労済ホール/スペース・ゼロ(新宿)
2012年3月24日(金)ソワレ観劇
上演時間1時間40分(休憩15分)


われわれの世代には『ひょっこりひょうたん島』でその名を嫌でも覚えさせられた
人形劇団『ひとみ座』の60周年記念公演。
シェイクスピアを題材にし、人形でそれを演じるということで、どうしても
ついこのあいだ観たばかりの結城座『夏の夜の夢』と比較してしまうが、
古典演劇としてのシェイクスピア調は、結城座の方にその残り香がある。
ひとみ座のそれは、デザインも操演も現代風にソフィスティケートされた、
21世紀のシェイクスピアだ。

もちろん、それは悪いことではない。頭の大きさだけで50センチ、胴体は
布ばかりだがそれでも身長2メートルあるプロスペローの3人がかりでの
操演は、それだけで見ごたえ充分だし、存在感がハンパではない。

さらに傑作なのは風の妖精エアリエルの造型で、足はなく、腕の部分は片側
三枚づつの布に過ぎないのだが、これが時に翼になり、時に腕になりと、
自由自在。“風”のキャラクター化として申し分ない。

前二作の『マクベス』と『リア王』は観ていないのだが、ロビーに展示された
人形を観てみると、『リア王』がリアルディフォルメ系、『マクベス』は登場人物
を昆虫に擬しており、象徴的デザインではあるものの、大きさは大体一緒だ。
この『テンペスト』は、人形デザイン(ひとみ座の象徴のような片岡昌から
若手の高橋ちひろにバトンタッチしている)こそ、いかにも子供向けの人形風
に戻っていながら、その大きさを役柄によって変化させることで、一人々々の
存在の大きさまでをも表現している。プロスペローを追放した弟のアントーニオー
はじめ、気の弱いナポリ王のアロンゾー、おべっかつかいの老臣ゴンザーロなどは
二頭身(頭が三〇センチ、全体で六〇センチ)。これで人間たちの卑小さを
表しているのだ。美男美女役のファーディナンドとミランダはすんなりとした
身体を持ち、もっとも普通の人間に近い。こういう、“一目瞭然”なキャラクター
分類が出来るところが人形劇ならではの強みだろう。そしてエアリエルは、
時には他のキャラクター並の大きさ、時には布をつかって、舞台一杯にまで
広がったりとその大きさを変化させる。エアリエル以外の妖精たちは人間が演じ、
場面場面で木になったり、岩になったりをマイムで演じるのもよく、“視覚”的
効果としては文句のつけようのない舞台だった。

……ただ、その人形たちが演じるストーリィは、結城座のときもそうだったが、
シェイクスピア劇をなぞっているだけ、という感じがして、もう少し、それこそ
ディフォルメによる強調が出来なかったものだろうかと不満が残る。これはこの
舞台だけでなく、『テンペスト』という芝居の上演のまずほとんどに言えること
だが、キャリバンというキャラクターが、初登場時のインパクトの大きい割に、
大した印象に残らないままに終ってしまうのである。

シェイクスピアがこの戯曲を描いた大航海時代、被征服地の原住民のイメージが
観客の頭の中に大きく位置を占めていた時代と違い、現代にこの哀れな怪物を描く
となれば、何かそこに新たな存在理由をつけ加えなくては、ただのアホ役として
こそこそと反抗をたくらみ、失敗するという、情けない役回りにしかならなくなる
(実際そうなってしまっていた)。

話の内容は(と、いまさらシェイクスピアをなぞっても仕方ないが)、
1・プロスペローとエアリエルによる壮大な復讐の物語、
2・無人島に流されてなお王位を簒奪しようとはかるセバスチャン、アントーニオ
たち人間の醜さと滑稽さの物語。
3・ファーディナンドとミランダの愛の物語、
4・キャリバンとステファノー、トリンキュローのマヌケな反抗の物語
の四つのセグメントに別れて進行するが、この四つの混交がうまく機能していない
という感じがした。中でもファーディナンドととミランダの部分が最も影が薄い。
こことキャリバンたちのストーリィを交錯させてもよかったのではないだろうか。
ファーディナンドはナポリの王子、そしてキャリバンも、世が世であればこの
島の支配者であった魔女シコラクスの息子で、島の王子であったのだから。

上演後に、私の後ろの席にいた男女が、
「『テンペスト』って悲劇だと思っていたら喜劇だったんだ」
「喜劇というより祝祭劇だね。プロスペローが別に大した理由もなく突如怒り
を解いて、みんなを許しちゃうんだから。祝祭と思わないと成り立たない」
と会話していた。まさにその“成り立たない”部分の説明を、演出(藤川和人)は
シェイクスピアの原作にゲタを預けたままにしてしまったような気がする。
前半、怒りのプロスペローをもっと徹底して描き(エアリエルを叱りつける
部分は大変よかった。もっと、ファーディナンドに愛の成就のための苦行を
与えるところなどでも、怒らせてよかったと思う)、それが許しに変わる
転換点のきっかけをファーディナンドの純な心に託し、老いの固執が解けるようには
描けなかったろうか。祝祭の意味合いは薄れても、もっと印象的になった
と思うのだが……。

人形がかつてのひょうたん島やネコジャラ市を連想させるユーモラスなデザイン
であることと、ストーリィがシェイクスピアほぼそのままであることで、
対象とする観客層があいまいになっている部分もあったように思う。
子供も客席にいる人形劇の舞台で、
「私の娘(ミランダ)を犯そうとした」
というプロスペローのセリフと、それに合わせて腰を動かすキャリバンの
動きを入れるのはいかがなものか? とはいえ、私の隣の席に座っていた小学
3年生くらいの男の子は、トリンキュロー(この芝居ではトリンとキュローという
双子の、人間だか動物だかわからないキャラクターになっていたが)がステファノー
やキャリバンを棒でひっぱたくシーンでキャッキャッと興奮して笑っていた。
街頭人形芝居のパンチとジュディのひっぱたき合いに、シェイクスピア当時の
子供たちが興奮して笑っていたのと同じ反応である。人形芝居はちゃんと、
現代の子供たちにも通じるのだ。これを確認しただけで、すばらしい経験で
あったような気がする。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa