15日
木曜日
観劇日記・21『夏の夜の夢』結城座
『夏の夜の夢』
結城座
作/W・シェイクスピア
訳/小田島雄志
構成・演出/加藤直
出演/出演/結城孫三郎 結城千恵
荒川せつ子 結城育子 平井航
橋本純子 結城数馬 岡泉名
客演/斎藤晴彦 宮本裕子
音楽/港大尋
人形・衣装デザイン/太田雅公
於/神楽坂イワト劇場
2012年3月13日(火)観劇
上演時間2時間強(10分休息あり)
1635(寛永12)年から377年の伝統を誇る江戸あやつり人形
一座がこの結城座。座長の結城孫三郎は現在で12代目を数え、
江戸風の人形芝居だけでなく、江戸川乱歩やジャン・ジュネなどの
原作を取り入れたユニークな活動で、国の無形民族文化財に指定されて
いる。テレビなどでその片鱗は目にしていたが、一度実地に見てみよう、
と足を運んだ。
もちろん、古い劇団の常として、いい話ばかりでなく、分裂騒ぎが
あったりなんだり、毀誉褒貶さまざまな噂も耳には入ってくるが、
まず、前情報はあまり気にせず、素直に舞台を鑑賞してみた。
思った以上に抽象化されたデザインの舞台上に、中世東欧のギニョール
を思わせるデザインの人形たちと、生身の人間(斎藤晴彦、宮本裕子)
とが立ち、台詞を交わす。あやつり師たちも時に芝居にかかわり、
人形と人間との渾然一体の空間がそこに現出。港大尋の音楽が見事に
それをとりまとめる。舞台の構成として大変に勉強になったし、
斎藤の歌はやはり大したものだ。
ハーミアとライサンダー、ディミトーリアスとヘレナの恋人たちの
物語は、ちょっとストーリィ展開を把握しつつ見るのがつらく、
何回か船を漕いでしまった。こういう、人情の機微のドラマは
やはり生身の役者のものだろう。一方で、オベロンとタイターニア、
そしてパックたち妖精のやりとりは、人形と人間のないまぜになった
芝居が見事。ことに、小妖精たちが羽をはばたかせながら飛び交う
シーンの幻想性には感服した。また、ボトムやスナッグたち職人が
最後に演じる芝居『ピラモンとシスビー』の、七五調の泰西大悲劇と
いったオーバーな芝居も実に面白く、これだけでも入場料のモトは
とった気になった。
……つまり、どういうことかというと、ディフォルメの問題なのだ。
人形劇というのは、どれほど見事な操演を見せても、しょせんは人間
の動きにはかなわない。しかし、その表現技術の制限が、逆に一個一個
の表現をきわだたせ、現実の人間の演じる表現のカリカチュア、
ディフォルメになる。ということは、そこで人形によって演じられる
ストーリィにも、この動きに連動したディフォルメが必要になる、
ということだ。
媚薬の花の汁を垂らされて、一晩で恋愛の対象が変わってしまう
というハーミア&ライサンダー、ヘレナとディミトーリアスのドラマ
は、確かに喜劇的なディフォルメがなされたアイデアだが、しかし
各役者(人形)の演技には、一般の演劇とさしたる変わりはない。つまり、
人間が演じる一幕と、ほとんど変わらない芝居なのである。
こういう場面では、人形芝居は人間の役者の舞台の方にどうしても
一籌を輸してしまう。眠くなったのはそのせいだろう。
一方で、元の脚本でも大いにディフォルメされている、ボトムたち
職人のフール(道化)芝居は、これは人形たちの独壇場だ。
以前、普通の演劇としてこの芝居を観たとき、彼らの、誇張された
演技や、シェイクスピア独特の言葉間違いのギャグなどが、
どうもしっくりこなかった。英語ならまだしも、日本語に訳された
段階で、面白くもおかしくもなくなってしまうのだ。
それが、今回観た人形による芝居では、しっかりとギャグとして
成立していたのには密かに驚いた。そして、そうか、こういうわざと
くさいギャグは、人形というディフォルメされた存在の口から出る
(いや、操演者がしゃべっているのだが)ことで成立するのか、と
思ったものだった。たぶん、シェイクスピア時代のコメディアンたち
の演技は、今よりもっと大げさで泥臭く、こういうギャグがぴったり
だったのだろう。
人形劇というもの、一度ルナティックシアターでやったことがある。
あのとき、もっと勉強すべきであった。これを皮切りに、少し他の
人形劇団のものも体験してみたいと思う。
太田雅公デザインの人形も、西洋と東洋が微妙に混交した奇妙な味が
面白かった。ただ、パックのみは、どうしても頭に、トルンカの
人形アニメのそれが頭に浮かんで、それと比較してしまう……。