1日
金曜日
古い映画を見ませんか・16 『野獣都市』
福田純監督『野獣都市』(東宝・1970)
製薬会社社長の三國連太郎は戦時中に麻薬の製造・販売で莫大な利益を
得て財をなし……と解説すると、ア、『犬神家の一族』ね、と思うところ
だろうが、この映画でも同じような設定なのである。死ぬときのメイクも
青塗りで、犬神佐兵衛っぽい。いや、三國連太郎という役者が、過去のある
男が似合っている役者なのだろう。代表作『飢餓海峡』でもそうだった。
一方で本来の主人公(と強調しておかないと途中まで三國が主人公と錯覚
する)である黒沢年男(現・年雄)には過去がない。途切れ途切れに映画の
中で語られるが、親がなく、苦学して大学の工学部(と説明されるがどう
みてもバケ学風)で研究をしている。成績は優秀だが、貧乏なのでレポート
に必要な資料も買えない。おまけに大学はストの嵐で(いきなり映画はスト
風景から始まる。1970年という時代ですな)授業どころでなく、卒業も
延期。就職もままならないところを、バイト先の銃砲店で知り合った三國に
運転手兼・殺し屋として雇われる。このときのセリフで、
「君、給料いくら貰っているんだ」
「三万です」
「それで学費までか。大変だな。私の運転手にならんかね、月二十万出そう。
……君の銃の腕も見込んでの値段だ」
というやりとりがある。70年当時の物価はおおまかに言って今の1/5で
あるから今の感覚で言うと、黒沢は月100万円で雇われたことになる。
この給料が、殺人に手を染めるまでに値する金額かどうかは別として、
これ以降黒沢は、三國に徹底して尽くしつくす(日本語が変か?)。
案の定“ホモっぽい”という感想を述べていたブログがあった。確かにそう
見えて不思議はない。一方で失われた理想の父親像を主人公が三國に投影した、
と取るウィキペディア的な見方もあり、これも理にかなっている。原作では
主人公は、金のために主人まで利用し、その計画のために主人の娘を強姦し
自分の言いなりにする冷血漢になっている(大藪春彦の作品にはよくある
人物造形)。三國に愛情を感じるという設定は映画オリジナル
(脚本/石松愛弘)なのだ。
私はこの二人の関係を、戦前世代に対する70年代世代のあこがれととる。
まだ幼かった私の記憶の中ですら、60年代を良きにつけ悪しきにつけ盛り
上げてきた安保闘争の、事実上の敗北を目睫のことにして、70年という年の
若者たちの負っていた虚脱感というのは、今の若い人たちには想像もつかない
ほど大きかったのである(この喪失感はその年11月の三島由紀夫の割腹自殺
で右も左もいっしょくたにして総まとめされる)。
1970年バリバリの時代描写がこの映画には顕著(原作は1964年初版)
で、ゴーゴー喫茶は出てくるわ、グループサウンズ風の主題歌が冒頭とラスト、
おまけに映画の途中にまで流れるわで、現代の目からすれば失笑ものだろうが、
私はこれがないとこの映画の主題は伝わらないと思う。若者の歌がプロテスト・
ソングからフォーク、ニューミュージックなどインナースペースを歌うものへと
転換した時期である。自分たちが求めた理想の社会はついに到来しないことが
あきらかになり、行き場がなくなっていた若者は、いたずらな空虚感に
さいなまれ、生きる目的を求めてさまよっていた。
そんな状況下で、戦前・戦中派は実に元気いっぱいである。戦時中、曙機関
というスパイ組織のボスだった三國連太郎は、麻薬取引の過去を知る戦友の
小松方正に脅されると、黒沢年男に彼を殺させ、ボートで湖に死骸を捨てる
とき、ピストルで顔面を頭部ごと破壊して、身元がわからないようにする。
見事に小松を撃ち殺したとはいえまだうぶな黒沢は、それを見て嘔吐するが、
これが彼の、殺し屋へのイニシエーションだったのだろう。
一方で三國を追い落とそうとする連中もまた、一筋縄ではいかない悪党ばかり
だ。清水将夫も北竜二も大滝秀治も、喪失感など薬にしたくも持ち合わせぬ
ようなずぶとい連中ばかりで、陰謀と金もうけ、つまりは生き抜くことに嬉々と
している。それだけ生命への執着もしつっこいのだが、一方の主人公・黒沢は、
腹を撃たれての死の逃避行の中で、
「やっと生きている実感がわいた」
とつぶやく始末である。根本のパワーが違うのだ。
その差は何か。三國と黒沢の対比で言うならば、“過去”を持っているかどうか、
によるだろう。後ろ暗いものであれ忘れたいものであれ、自分を突き動かす
ものは過去しかない。俺たちは戦友だったじゃないかという三國に小松方正
は、“お前は成功し、俺は失敗したんだ”と言う。三國は過去を現在につなげ、
小松は過去を失った。最初の殺人が小松であったということは、黒沢にとり
自分(過去のない男)を殺すことであったわけだ。黒沢は自分を殺し、過去
のある男・三國に“徹底的に賭けてみる”ことで、その生きてきた過去を共有
したかったのだろう。
つまるところ、この映画は戦中派同士の潰し合い・生存競争に巻き込まれた
シラケ70年代世代の抗争と敗北(まあ、敵も皆殺しにはするが)を描いた
作品、ということになるのではないか。それが映画の求めたところかどうか
は知らないが、そう見るのが最も矛盾なくこの作品を観賞できる。彼の死に
かぶさるあのグループサウンズ的主題歌は、70年世代への鎮魂歌なのだ。
今聞いてズレてると感じるのは、むしろ演出が正しかった証拠であると
言えよう。
福田純、西村潔、小谷承靖などによる70年代東宝ニューアクションもの
は日本映画史におけるハードボイルドものの系譜の中で、大きな役割
を果たしている割には注目されることがあまりに少ない。その理由として、
時代色というものを濃厚に画面に焼き付け過ぎていたため、風化が早かった
のではないかということが考えられる。
それだけに、視点を変えれば、時代証言として極めて貴重な資料と言える存在に
なっているのである。
70年代らしいと言えば、小松方正の娘役でチョロッと出てくる岡田可愛。
以前のVHSパッケージでは、ヒロインでもない彼女の写真がパッケージ表に
載っていた。これは、当時彼女がTV『サインはV』で一世を風靡していた
人気スターであったからで、完全に客寄せのためのカメオ出演であった。
本来のヒロインは高橋紀子。三国のハスッパ娘で、黒沢をからかってモーテル
に誘って逆に犯され、最後には同年代同士死への旅を共にする。福田純監督の
お気に入りらしく、『フレッシュマン若大将』や『コント55号宇宙大冒険』
に出ている他、『ゴジラ・エビラ・モスラ南海の大決闘』でも島の娘・ダヨ
で起用されたが、途中で盲腸炎で降板したとか。テレビドラマでは『ウルトラ
Q』の『南海の怒り』での、やはり島の娘が有名。この70年に引退して、
現・寺田農夫人。
福田純と言えば上記の若大将もの、ゴジラものシリーズが有名だが、いずれも
“シリーズを引き継いだ人”という感じで、斜陽の映画界にあって、その本領の
演出力を発揮できなかった人、という印象が強い。しかし、その娯楽映画
監督としての“見せる”力、というのは、この作品などを見ても実にしっかりと
していると改めて感じる。