30日
水曜日
古い映画をみませんか・15 『雁の寺』
川島雄三監督『雁の寺』(大映・1962)
厳しい戒律の場である筈の禅寺でくり広げられる男女の
愛欲と、鬱積した情念に悩む少年僧の姿を描く水上勉の小説
(直木賞受賞)を川島雄三が映画化した作品。
襖絵に群れ遊ぶ雁たちの姿が描かれ、『雁の寺』と呼ばれる
寺・狐峯庵。映画の冒頭で、この襖絵を描いた日本画家・
岸本南嶽がコロリと死ぬ。
この、ほんの数分の出演で南嶽役に中村鴈治郎を使うぜいたくな
キャスティングだが、その効果は抜群である。映画全体を
包む、爛熟した(しすぎた)京文化が鴈治郎の姿に収斂されて
いる。その鴈治郎が、死の床でいびきをかいている。
死ぬ間際の人間はいびきをかくような呼吸をするが、これは
舌を支えている筋肉がもう働かなくなり、喉をふさいでしまうので
いびきのような音がするのである。厳粛な死のイメージが台無し
になるので、普通の映画では描かない。そこをこの映画は実に
リアルに表現している。映画後半にも、檀家の久間久三の兄、
平三郎がいびきをかいて床に伏せっているシーンがあり、
いびきは死の象徴となっている。
その、死の瀬戸際の呼吸の中で、南嶽は、友人の狐峯庵住職・
北見慈海に、自分の愛人・里子のことを託す。慈海(三島雅夫)、
里子(若尾文子)のキャスティングのハマり具合と共に、
タナトス(死)とエロス(生にして性)が見事に交錯する
出だしである。
もっとも、このシーンは水上勉の原作にもあるシーンである。
いびきの描写も原作通りだ。
映画オリジナルは、この後、南嶽の初七日に、里子が狐峯庵を
訪ねて位牌を拝むシーンにある。
里子は位牌の前で
「いや、なんやの、臭いわ」
と鼻を覆う。
小坊主の慈念(高見国一)が汲取りをしているのである。
いかにも川島雄三的な悪趣味で、カメラは汲取口の中に入り、
肥びしゃくを突っ込む慈念の表情を捉え、汚物にまみれた
肥びしゃくがアップになる。
カラーなら直視できないシーンだろうが、モノクロ映画の利点は、
色を排することで、汚物ですら、メタファーとできることである。
この映画と同じ1962(昭和37)年公開の黒澤明監督『椿三十郎』
のラスト、三十郎に斬られた室戸半兵衛が吹き上げる血しぶきは
モノクロ故に、武士という立場の人間が胸の内にため込んでいる
不満や憤懣、あるいは我欲のアナロジーになり得たが、カラーであれを
やったら、単なるスプラッタになってしまう。映画は色がついたことで
大きなものを得たが、また失いもしたのである。
排泄物が臭いということは、いい食事をしているということで
ある。慈海が生臭ものを食べているということだ。
このシーンはこれまた後半、体を悪くした慈海が、京都の有名な
すっぽん料理屋・大市のすっぽん鍋を届けてもらって養生する
というシーンとつながる。原作は生の象徴として性を置くだけだが、
映画はさらにそこに“食”をも置くのである。
大きなガラス容器に入れられて届くすっぽん鍋は確かに精が
つきそうで、川島監督はこれにこだわったらしく、撮影で毎日々々
すっぽん鍋の匂いをかがされた若尾文子はそれ以来、すっぽんを
食べられなくなってしまったという。
他に、慈念の育ての親である木田黙堂(西村晃)が狐峯庵を訪れての
酒宴も、原作では浜チシャのゴマよごしや豆腐汁という禅寺らしい
精進であるが、映画では黙堂が下げてきた鴨をさばいての鴨鍋である。
すっぽんだの鴨だのの、大饗宴シーンを見せて、監督はこの後に
続く慈海のセックスのねちっこさを観客に連想させたのであろう。
映画は戦前という時代設定だが、公開自体は昭和37年である。
まだ国民の大半はメタボにも糖尿にも無縁であった。
これまた、食糧事情が急激によくなった昭和40年代以降には
通じない表現手法である。豊かさが奪った表現手段であろう。
映画独自の演出と言えば、中盤から重要な人物になってくる
慈海の法類(親戚寺)の住職、宇田雪州を、日常生活では洋装で、
カメラが趣味という“ハイカラ坊主”にしているのもそうだ。
雪州を演じるのは喜劇俳優の山茶花究。上記『椿三十郎』の前編
にあたる1961年の『用心棒』でコワモテのやくざ、新田の丑寅
を演じているが、喜劇役者としてはこっちの方が本領だろう。
セリフの一言々々が面白い。彼の存在、また慈海が里子との閨房に
持ち込むダブルベッドと、伝統ある古刹とのアンバランス、
いずれも禅寺という、規律と戒律により成り立っている世界の
崩壊状態を示している。皮肉なことに、最も禅の教えに忠実であろうと
していたのは、殺人者である慈念だったのである。
映画の後半、平三郎の葬儀のシーンも映画オリジナルで、まるで
ヒッチコック劇場を見るようなブラックユーモアがただよう。
鬼才・川島雄三の面目躍如である。筋萎縮症に冒されつつ映画を量産
していた川島は、常に死を隣り合わせにしていた。この映画の公開の
翌年、1963年に45歳の若さで死去する川島の目は、まるで
死を弄んでいるかのように、その戯画化を楽しんでいる。
そして、この映画の最大の謎である、あのラスト。
主演の若尾文子ですら
「終わり方がよくわからなかった」
と言っているくらいである。
http://neco.weblogs.jp/necomimi/2010/02/3-2814.html
いきなり画面がカラーになり、戦後、南嶽の襖絵を観光資源として
稼ぐ狐峯庵の様子が紹介される。住職は小沢昭一で、通俗を絵に
描いたような商売坊主である。観光のウリは、戦前に失われた
襖絵の一部の修復が完成した、ということで、その図柄がアップに
なって終る。カラーになったとたん、それまで緻密なまでに
凝っていたカメラアングルがいきなり乱れて8ミリカメラでの
旅行記念撮影みたいになってしまうあたり、大いに笑える。
以前、この作品で助監督を務めた湯浅憲明監督(後にガメラ
シリーズの監督として有名になる)にお話を聞いて、このラストの
秘密をうかがう機会があった。
それによると、あのラストは最初から監督の演出意図にあった
ものだという。つまり、母に捨てられ、“母性”を求めていた
慈念(それをいっとき里子に求めたが、里子が慈念に肉体を与えて
しまったために母の聖なるイメージが壊れてしまった)が、襖絵に
描かれた、雛に餌を運ぶ母鳥の姿に嫉妬し(あるいは憧憬し)、
寺を去るとき、その部分の襖絵を破り取っていく。
それが戦後、修復されるのだが、実は修復ミスで絵柄が違っている。
その新しい絵では、雛鳥が飛び立ち、母の元を巣立っていく図柄に
なっているのだ。
ここに川島は、慈念の、母からの脱却の意味を込めたのだという。
「しかし、冒頭と最後の図柄が違うなんて、観客にはわからないのでは
ありませんか?」
湯浅助監督は台本を読んで川島監督に聞いたという。確かに、いくら
伏線が引いてあるにせよ、1時間半も間が空いては、ほとんどの観客
は覚えていない。ビデオ時代でない当時の観客には確認のすべも
なかったろう。
だが、川島監督はその質問に、ニヤリと笑って言ったという。
「わかる人にだけわからせておけばいいんです」
……映画が文化の尖端だった時代には、そのような突き放し方も
とることが出来た。気がついた者だけがアッと膝を叩く、その場面
を想像してニヤリとする特権を、監督は持っていた。
今の映画は、観客に媚びねば生きていけない。入場料を払った客には
平等にストーリィを理解する権利がある。伏線は必ず回収され、かつ、
くどいほどわかりやすいように、観客に説明されねばならない。
この作品のような粋な演出もまた、映画の黄金期に製作側にいた者だけ
の特権であり、今はすたれてしまった演出法であろう。
ちなみに、川島の死後、映画が斜陽期に入った時代に監督に昇進した
湯浅憲明は、説明魔と言われるほど、映画をわかりやすく、誤解の
生じないように作る名人となった。ある意味、師匠とは時代が違う
ということを誰よりよく知っていた人物だからだろう。