裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

11日

水曜日

今夏映画日記4『スタートレック・イントゥ・ダークネス』

いやあああ面白かった!
この夏の映画は前評判や回りの騒ぎ方が大きかった分、実際に観に行って
「え、こんなの?」
というスカされが多かった(『パシリム』も私はアカンでした)大作群の中、
あまり期待しないで行ったこの『イントゥ・ダークネス』が個人的に大ヒットして
しまった。

なんで期待しなかった(出来なかった)かというと映画会社のバカが「あの」映画
へのオマージュ作品でであるということを隠し、クリストファー・ノーラン版の
バットマンみたいな、ダークなオトナのムードの映画であるようなウリのポスターで
宣伝しやがったからであって、見てみたならばクリビツテンギョー(古い!)、
『カーンの逆襲』の、もはやパロディと言ってもいいリメイクだった(最近流行りの?
 “リブート”て言葉は嫌いだ)ではないですかあ。ちゃーんといままでのスタトレ
同様のおバカなノリで、安心して観ていられる。『カーンの・・・・・・』はカーク船長
(W・シャトナー)が老眼鏡をかけるシーンがあったように、老境に入った者たちが
次世代へとバトンを渡す物語だったが、今回はカークたちが前世代からバトンを
渡される物語へと、見事に換骨奪胎されている。

もちろん、スタトレをぜーんぜん知らないというウブなお客さんはポカン
であろうが、そもそもそういう作りの映画、徹底したアメリカ人向けの映画なのだ。
無理して日本人に売ろうとしても、土台ムリなシロモノなのですよ。映画批評サイト
の中には、この作品がコアなスタトレマニアに酷評されているにも関わらず、
あちらで大ヒットしたのを「昔の作品を観ていない新たなファンを獲得した」
と分析しているところがあったが、およそアメリカ人で、スタートレックを
全く見ていない、認識していない層というのはいないから。

あまりに濃いトレッキー(スタトレオタク)は、新作の全てを拒否する(という
ポーズを取る)のが定番なのだ。なにせ、オリジナルの最初の『スタートレック
(宇宙大作戦)』すら、「最初の三話しか認めない」とかいう凄まじい原理主義者が
いる世界なのだ。

とにかくこの作品は、この作品を通してアメリカという国を、蘆の髄から見る
ようにして見る見方を必要とするだろう。第一にしてからが、クライマックスと
ラストは911テロを露骨なまでに彷彿とさせるシーンであるが、ここは“被害者”
としてあの事件を体験した国民でないと心には響かないだろう。そして、歴史が浅い
故に、スタートレックのようなテレビ番組を、自国のシンボルとして誇りにするような
気質の国、ということを理解しないと、なぜ彼らがここまであの番組を延々とリメイク
し続けるかの理由もわからないだろう(余談だが、私がオタク文化に興味を持った
のも、戦争や飢餓、安保闘争という共通体験を失った日本人の新たなコーホート作
りに、テレビの子供番組というものが新たなスペックとなるのではないかと期待した
からだ)。

この作品はそれまでのシリーズが基本、同一の歴史上のものとして描いてきた
スタトレのシリーズを、その伝統は守りつつ「パラレルワールドの物語」として
再構築した前作からのシークエル(続編)で、おそらくアメリカ人の観客は、スタトレ
シリーズおなじみのセリフ、おなじみのアイテムが出てくるたびに大笑いし、
口笛を吹き、拍手して「これが理解できる仲間」の再確認を劇場で行うのだろう。
ウスいファンでしかない異国の民の私ですら、いくつかのシーンでニヤリとし、
いくつかのシーンで膝を打ったくらいである。スタトレを全く知らないという人は、
少なくとも、レンタルビデオで旧映画版の1,2,3作、それも大変だというなら
2作目の『カーンの逆襲』くらいは見ておいてから映画館に行った方がいい。
なんであの、ストーリィとしてはあまり登場の必然性のないキャロル・マーカス
博士があんなに色っぽく描かれているかというと・・・・・・というあたりも
よーくわかる。

しかし、実はマーカスなどはどうでもいいのだ。
そう、「あの」セリフがあのキャラクターから「あの」キャラクターに移り、
あのシチュエーションが立場を逆にして・・・・・・という、“パラレルワールド”だから
という理屈づけで見事な置き換えを行い、スタトレを語る際に絶対無視できない
(しかし日本人のスタトレ研究家はあえて無視しがちな)スラッシャー(日本で
言う腐女子)の心をくすぐる描写を随所に入れているのを見れば、この映画について
日本の配給会社がのたまった
「スタートレックを知らない人でも楽しめる」
という文句が大ウソであることがわかる。いや、日本のスタトレファンでも、
ここのところは理解しているかどうか。

だいたいですな、スラッシャーの起源がシャーロック・ホームズとワトソンは男同士
で同居して、あんなに仲よくて、ホモなんじゃね? という発想から創作された
ホームズもののホモパロディにある(日本ではこのカップリングをホムワトと称するが、
あちらでは「ジョン」・H・ワトソンとシャー「ロック」でJohnlockと唱える)作品に
端を発する(のが定説である)わけであるが、この映画のキャスティングに、21世紀に
入ってぐんとこのJohnlock層を増加させたと言われているカルトTVシリーズ
『SHERLOCK/シャーロック』でホームズ役を演じたベネディクト・カンバーバッチ
を当てる、ということ自体、そのテのファン層を取り込もうという製作者側の意図は
ミエミエと言っていいのである。

オリジナルの『カーンの逆襲』でも、筋肉ムキムキマッチョ(これも古い表現だのう)
のカーンと、その配下の美青年軍団の関係(明らかにカーンの采配ミスで戦いに破れた
後も「あなたへの信頼はいささかも揺るぎません」と言って彼らは死んでいく)が
ホモチックであるとウワサされたが、今回はそういう関係(旧作を観ていればわかる
のであえてネグっている)に、逆にカーンが捕らわれて、カーク/スポックの
カップルwをぎりぎりまで追い詰めて、最後にその愛情を逆手にとられて敗北すると
いう視点で作品が描かれている。

・・・・・・いや、もちろん、こんなことは意識せずとも脚本チームの伏線の張り方の巧みさ
(ご都合主義と評する者もいるが、実はご都合主義こそエンタテイメントにおける
基本構成要素なのである)にウナらされる。テーマである、「愛」が時には悪を呼ぶ、
という主旋律が、クラシック音楽のように変調しつつ何度も繰り返されるのがいい。
冒頭の、娘が死病にかかっている情報将校のエピソードだけでもう、ご飯三杯ですよ。

各キャラクターの使い方もそれぞれのファンが満足するレベルであり、特に今回は
スコッティ(テレビならチャーリー)役のサイモン・ペグがいい。最近のハリウッド
娯楽映画定番の寸止めギャグも、パシリムなどよりずっとシャレて描かれていた。

ご都合主義の権化みたいなラストの“生きかえり”を果たしてどこまで許容するか、
であるが、これも私には大いなるパロディ(という名の旧作批評)に思えて爆笑で
あった。つまり、後のスタートレックサーガを作ったとされて半ば神格化される
『カーンの逆襲』であるが、この作品でいかにも仰々しく「次回に続く!」とラストの
ヒキを作られたその次作『ミスター・スポックを探せ!』が、期待を大きく裏切る
イヤハヤな出来であった(大評判になった新キャラ、サーヴィックを演じたカースティ・
アレイが人気をハナにかけて莫大なギャラを要求し、結局降ろされたのも一因)
ことはスタートレックマニアにとっては無視できないトラウマである。
「どんなに無理をしてもこの映画の中で全部カタをつける」という製作側の姿勢
には、かつて期待をかけて裏切られたファンたちには快哉を叫ばしむるものであった
だろう。

要は、「こういうシリーズものは単体映画を批評する目で見てはいけない」ということ
であり、それを映画配給会社の謀略に乗って、事前学習なしに観にきてしまった
方はまことにお気の毒、ということなのである。パンフレットの執筆者たちも、
この映画の一番のミソを書けなくて四苦八苦しているのが苦笑もの(そのくせ、
スタッフインタビューできちんとバラしてしまっている。チェックミスだろう)
であった。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa