裏モノ日記

裏モノ採集は一見平凡で怠惰なる日常の積み重ねの成果である。

8日

木曜日

古い映画をみませんか・26 『殺人処方箋』(TVムービー)

(注意:ネタバレがあり、ミステリのラストをバラしています)

ロサンゼルスの名士である精神分析医、レイ・フレミングは若い愛人と
の生活のため、財産家の妻、キャロルを殺害。女優である愛人に
妻の扮装をさせてアリバイを作る。しかし、完全犯罪だったはずの
その計画に、ただ1人、疑いを抱いたのはロサンゼルス市警の警部、
コロンボだった……。

刑事コロンボの第1作、というより原型になった第0作の『殺人処方箋』
(1968)は、舞台用の戯曲を元にしたテレビムービーであった。
従って、ドラマのそこかしこに舞台の香りが残っている。

犯人であるフレミング医師のマンションが、窓外の風景が書き割りである
ことがミエミエのセットであるところもそうだし、コロンボがその部屋の
ドアを開けるところで、セットのドアが、安っぽい、ベニヤ板がきしむ
ような音を立てて床にひっかかるのを、コロンボ(ピーター・フォーク)
が苦心して“何事もなかったかのように”閉めている。単純ミスであり、
撮り直せばよかろうにと思うのだが、そのままOKにしてしまったのは、
舞台ではありがちなこと、なのだからだろうか。ちなみに、このきしむ
音は日本語版ではカットされてしまっている。DVDをお持ちの方は
英語バージョンにして聞いてみるといい。コロンボがクリーニング屋の
相手をするシーンである。

いや、そんなことよりもっと大事な舞台的特長が、後の、テレビシリーズ
となったコロンボに影響を与えている。

……つまり、コロンボが単独で捜査を行う一匹狼である、ということで
ある。これはおかしな話で、コロンボはまがりなりにもルテナント
(警部補)であり、れっきとした管理職である。事件の捜査の責任者
なのだ。本来であれば捜査チームの取りまとめが役割で、確認のために
使った写真を被害者の自宅に返しに行く、というようなハンパ仕事は
下っ端にやらせてしかるべきはずである。にも関わらず、コロンボは
そういった捜査関係の仕事をほとんど彼一人でこなしている。警察内部
でのはぐれ狼、というキャラクターは以前にもないではなかったが、
そういうキャラクターは本当に警察権力とは無関係に、個人として
捜査を行う。しかしコロンボは、あくまで組織の一員という性格は
持ちながら、それこそ証拠の返却などというチマチマした雑務仕事まで
自分でやっているのである。これは何故か。
……舞台劇では、役者の数をそう出せないからだ。

まして、この『殺人処方箋』は、大劇場付きの芝居ではなかった。
巡業芝居として、アメリカ各地を5ヶ月かけて回る旅芝居用に制作
されたのであった。舞台版の脚本をUSのAmazonで取り寄せて読んで
みると、登場人物はたった七人。それも、さっき出てきたクリーニング
屋の店員のような、セリフが二つくらいしかない端役まで含めてで、
主要登場人物はフレミング医師、その妻クレア、愛人のスーザン、
そしてコロンボの四人だけ。クレアを演じたのは『奥様は魔女』の
エンドラ役で有名なアグネス・ムーアヘッドで、こういう役は十八番。
セリフも多いが、被害者役なので当然のことながら前半1/3で姿を消す。
あとはずっと、ほぼ三人のみで(フレミングの秘書役のミス・ペトリー
はずっと舞台の端の机に座っているだけ)進行する、本当の“小劇場”
芝居なのであった。

従って、コロンボも、警部補とはいえ部下をぞろりと引き連れて捜査に
やってくるわけにはいかなかった。話の中だけで出てくる上司や同僚
を別にしても、残りの警察組織をひとまとめにした象徴的キャラクター
として、なんでもひとりでまかなわなければならなかった。
……これが逆に、コロンボというキャラクターの特異性を際立たせる
ことになった。そして、制作者たちはその特長を、テレビムービーの
際にもそのまま残すことにしたのである。

これもコロンボファンにはよく知られていることだが、『殺人処方箋』
は、最初はテレビのミステリー劇場向けの、1時間程度のドラマだった。
『Enough Rope』というタイトルで、フレミング医師を演じたのは
『大アマゾンの半魚人』などのホラー映画で主役をやっていた、
リチャード・カールソン。コロンボ役は性格俳優のバート・フリード
だった。フリードの顔は『事件記者コルチャック』などで確認できるが、
後のコロンボとはかなり違っていたらしく、当のフリードが後年、
コロンボをテレビで見て、自分が演じた役とわからなかったという
エピソードが残っている。

脚本家のリチャード・レビンソンとウィリアム・リンクはこの作品を
巡業用の舞台劇に仕立て直したのだが、幸い上記アグネス・ムーアヘッド
をはじめ豪華なキャストが実現し、フレミング医師は『第三の男』の
ジョセフ・コットン、愛人スーザン役はコットンの実の奥さんの
パトリシア・メディナ(後に東宝特撮の『緯度0大作戦』でも共演
している)、そしてコロンボ役は『駅馬車』『風と共に去りぬ』など
で知られるアカデミー賞俳優、トーマス・ミッチェルが演じた。
このミッチェルが、コート、葉巻、そしてネチネチしたしゃべり方など、
後のコロンボの原型を作り上げた。全米どこでも、この舞台の一番
人気は主役のコットンではなく、脇のコロンボを演じた70歳の老優
ミッチェルだったという。

従ってこのピーター・フォーク版の『殺人処方箋』はテレビドラマの
翻案の戯曲の再テレビドラマ化、というややこしいことになるわけだが、
人気のコロンボ像を作り上げた功労者のミッチェルは、その役を最後
に病に伏し、舞台を演じた1962年の暮に亡くなっていた。
原作者の二人はミッチェルのイメージを引きずっていたようで、代役にも
老優をキャスティングしたがったようだが、ネット局のNBCが
推薦したのが当時40歳のピーター・フォークだった。半信半疑で
そのキャスティングに従ったウィリアムとリンクだったが、その結果は
今更ここで語るまでもない。フォークは舞台でミッチェルが着ていた
オーバーコートをレインコートに変え、垢染みたフェルト帽というのを
省略したが、その他の演技は戯曲台本を見る限り、ミッチェルのものを
なぞっている。

テレビ版は何故か登場人物のファースト・ネームだけが変更されており、
戯曲版のロイ・フレミングはテレビではレイ・フレミングとなり、
その妻クレアがキャロル、スーザン・ハドソンはジョーン・ハドソンに
なっている。コロンボだけは戯曲もテレビも“コロンボ”だけで変わり
なし……なのだが、何とこの戯曲の舞台はロサンゼルスではなく、
ニューヨーク。コロンボもロス警察ではなくニューヨーク市警の警部である。
テレビの舞台がロスになったのは、単にニューヨーク・ロケは金が
かかるというみみっちい理由だったらしい。してみると、局がフォーク
の起用を熱心に勧めたのも、あまり有名な俳優を使うと金がかかるため
だったのかもしれない。なにしろ、原作者たちはビング・クロスビーを
希望していたのだ。

アメリカでは、ロサンゼルスは映画の街、ニューヨークは芝居の街と
いうイメージである。テレビで新人の映画女優という設定のジョーン
だが、舞台でのスーザンは舞台女優。コロンボが二人の関係に気付く
のは、フレミングの書棚に、演劇関係者から送られたと思われる、
スタニスラフスキー・システムについての本があったからだった。

舞台は三幕八場。フレミングのオフィスと彼のマンション、そして
一場だけコロンボのオフィスが登場。テレビでは映画の撮影スタジオに
コロンボが踏み込んできて、そこでジョーン・ハドソンを問い詰め、
自供させようと迫る(この脅すような態度が、後のコロンボを見慣れて
いるファンにはやや、違和感があるようだ。私はこっちの方が好き
なのだが)が、戯曲は自分のオフィスにハドソンを呼んで、そこで
取り調べようとするのだ。

場所や設定が戯曲用になっている他は、ほとんどテレビ版と同じように
ストーリィが進んでいく。いきおい。こっちも頭にテレビ版のシーンを
思い浮かべながら読んでいくわけだが、最終幕の最後の場(フレミング
のオフィス)で、あっと驚くドンデン返しがあった。テレビ版のラスト
とは全然違うのである。

もちろん、犯人はフレミング医師である。だが、その犯行がバレる過程が
テレビとは180度違う。テレビでは、愛人のハドソンと連絡がつかなく
なったフレミングが、彼女の家に行ってみると、プールサイドで彼女の
死体が取りかたづけられている。コロンボは、彼女を追い詰めて殺した
のは自分だ、とフレミングにあやまり、しかし、あなたも結婚しようと
思った愛人が死に、これでせっかく奥さんを殺した意味がなくなって
しまったのだから、自白したらどうですと勧める。フレミングは笑って、
「別に大したことじゃないさ。僕は彼女を利用しただけだ、愛してなんか
いなかった」
と勝ち誇るように言う。しかし、それがコロンボの罠で、実はハドソンは
生きていて、彼のその言葉を聞いており、彼の本心を知って失望し、自供
する……という筋立てである。

しかし、戯曲は全く異り、ハドソンの、フレミングを守っての死を伝え
たコロンボが、
「おめでとうございます、先生。彼女はあなたを有罪に出来る唯一の
証人だった。私はもう、あなたに指一本触れられない。他の誰もね。
あなたは天下晴れて自由です。先生……あなた、お勝ちになったんです」
と言い、引き取ろうとするとき、フレミングが
「私も一緒に行こう」
という。何のために? ととぼけるコロンボに、フレミングは
「自首するためだ」
と言う。
コロンボ「(彼をじっと見つめて)結構ですが、なんとも馬鹿げたこと
をされますな。そう思いませんか?」
フレミング「恐らくね……。君にはこの理由はわからんだろう。だが、
君はともかく、スーザンはわかってくれる。ねえ君、私は彼女に借り
があるのだ」
と、フレミングは長い独白に入り、そこで彼女への愛を語る。

そして、二人が去ったあとに、死んだはずのハドソンが駆け込んできて、
警察が長いこと自分を連れ回していて、連絡がとれなかった、と
フレミングの秘書に言う。無人のオフィスで彼女が見たものは、“全て
の愛を込めて スーザンへ”という、婚約指輪の包みに添えられたカード
だった。

……要するに、コロンボの罠は罠だが、フレミングは自ら犯行を自供し、
ハドソンは、ラストでフレミングの愛を確認する、という結末に
なっている。これは一種のハッピーエンドですらあるだろう。

おそらくテレビ版における変更は、ミステリとしてのインパクトという
こともあるだろうが、もうひとつ、犯罪者を正当化するように見える
可能性があると制作者側が判断したためではないか。1960年代の
放送コードでは、殺人者、それも自分の妻を殺した男に視聴者が感情
移入してしまうのはまずかったのだ。そのため、フレミング医師は
必要以上に(そして唐突に)酷薄な冷血漢にされてしまった。ここら
へんは、今見ても、完璧と言えるテレビ台本の唯一の難点である。

トリックとしてはテレビ版が勝っているが、ストーリィの流れと、
観た後の心地よさは戯曲版の方に軍配が上がるだろう。……ただ、
この変更が、コロンボ警部という希代の“ヒーロー”を際立たせ、
後のシリーズ化につながったことは確かだろう。この変更ではじめて、
コロンボはフレミングを抜いて“主役”になったのだ。
そこが、舞台版とテレビの、最大の違いである。

アメリカでは今もなお、この戯曲版は上演され続けているようだ。
日本でもどこかの劇団がやってくれないだろうか。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa