唐沢 さっきも浅野さんが“何に絞って語ったらいいか迷う”おっしゃったけど、読んでる人たちからよく言われるのが、「内容を分けて書いてくれ」ってことなんですね。読書日記、映画日記、グルメ日記、全部内容ごとにお皿を分けてくれないかと。でも、こういう風に分けると、自分で書いていてつまんないんで、日記として続かなくなっちゃうんですよ。
美好 分けないで書いてあるからこそ、一度にいろんなジャンルの情報が読めてお徳だと思うんですねどね。そこから思わぬ方向に興味が広がったり。
芦辺 だから、全部ひっくるめた“都市小説”だと僕は言いたいんです。僕なんかもともとグルメでもないし、食べ物に使う脳神経があったら別のことに使った方がよっぽど有益だと考えてる人間だったんです。要するにメシを食うこととモノを書くことは、まったく領域の異なる行為だと思ってた。ところが『日記』を読んでると、本を読むことも映画を見ることも食事をすることも全部渾然一体とした行為として楽しんでおられるじゃないですか。
唐沢 そういう意味じゃオタクじゃないですな、私は。一点集中が出来ない。アニメを語るときも、その作品だけに絞らずに、それの制作工程から受け入れられる土壌、こういう作品が出てくるまでの道のりとか、そこらひッくるめてでないと、意味がないと思うタイプなんです。
浅野 結局、視点と解像度の問題っていうか、カメラの視点が最初からしっかり固定されていて解像度も決まっていれば、題材はなんであっても安心して読めるということなのかなって思うんです。目配りが本に関しても映画に関しても食べ物に関しても街の風景に関しても、完全に等価なものとして捉えられているから、すごく安心して読めるんです。実は僕、3年ぐらい前に鬱病になってたんですけど、『裏モノ日記』読んでたら直っちゃったんですよ。
唐沢 そんな効果があったのか(笑)。
浅野 要は鬱病って、一つのことを思いつめて他のものを一切遮断しちゃってる状態なわけなんで、唐沢さんの「なんでも一緒くたにして楽しんじゃえ」ってスタンスに救われたようなところはありますね。
唐沢 なるほど、僕も若い頃に鬱は経験してるし、実家からこっそり持ち出した睡眠薬を常に身近に置いておいて、“いつでも死ねる”って状況を作っておいて、それで逆に神経を落ち着けていた時代があったんですけど、考えてみればあの当時の自分ってストイックでしたわ(笑)。当時の僕と同い年くらいの若い人たちに「ムリしなくても、普通に生きてたって楽しいことはたくさんあるんだよ」ってことを伝える役割をはたしているのが、『裏モノ日記』なのかな、という気はしないではないよね。
芦辺 僕なんかは、いずれ自分でも会心の作品が書けて、仕事にひとつの到達点が見えたあとに、ようやく人生の楽しみがあるんだなんて漠然と思ってたわけです。でも『日記』読んでると、唐沢さんは毎日仕事に追われてるくせに、楽しそうにしてるじゃないですか(笑)。「ああ、こういうモノ書きとしての人生の楽しみ方ってあるんだな」って初めて教えてもらったような気分なんですよ。
唐沢 そんなに楽しそうに見えるかな(笑)。案外つらいのを我慢してるんだけど。
美好 楽しそうですよ、おいしいもの食べてますし(笑)。
浅野 鬱病になる原因って「苦しい目にたくさん遭わないと、楽しいことってやってこないんだ」っていう生活認識だったりするじゃないですか。みんな元気がなくなるのって、そういう揺り返しに影響されすぎてるから。そうじゃなくて、「いま、ここにいることが、なによりも楽しいんだ」ってスタンスから言葉を投げてるのが、『裏モノ日記』の人気の秘密だと思うんですよ。
芦辺 その意味じゃ『裏モノ日記』って“読む薬”ですよね。
唐沢 こっちも書いててツラい内容のときもあったりするんです。そもそもいまの日記がこんなに毎日長文になっちゃったかっていうと、きっかけになった文章があって、それは今回の本にも入っている、イッセー尾形にハマリこんでいたときの思い出なんです。これは編集部からの強い要望があって本に入れたんですけど、入れるかどうかは私自身もすごく迷ってて、あの文章はホメてくれる人が多い反面、「これは青春期のドロドロ状態からたまたま帰還できた人間のナルシズムにすぎない」って批判する人も多かった。
浅野 でもそれって、要は帰還できなかった人のヒガミじゃないですか(笑)。実際、ネットで日記を書いてる人たちって、けっこうそういうヒガミ系のものが多いんです。こっちが読んでていたたまれなくなってくるくらい。
唐沢 ヒガミばっかり書きゃいいんなら、どんなに楽だろうとは思いますよ(笑)。でも、そうはいかない。これは売文やっている人間の職業病なんだろうけど、やはり読者を意識しちゃう。
浅野 僕も日記は書いてたんだけど、会社の上司から苦言が来て「会社の仕事で見聞きしたことは一切書くな」って日記禁止令が出ちゃった。
唐沢 ああ、知り合いでも同僚にチクられて社内問題にされちゃった人はいますね。サラリーマンはつらいよね。植木不等式さんも一応、会社員なんだけど、あの人、けっこうなんでも書いてるよな(笑)。いいのかな。
芦辺 日記って、その人の生活している空間に、別の面からカメラを向けてしまう行為ですからね。カメラポジションが変わっちゃう。それをみんな恐れるんですよね。
唐沢 僕はそういう恐れはないなあ。……まあ、それは自分のことをさんざネタにエッセイを書いていたおかげかもしれない。テレビタレントが自分の顔のどっちが映りがいいかを知っているみたいなもんですかね。
芦辺 しかし『裏モノ日記』の単行本化って、ホントに僕ら待ち望んでたんですよ。いったい、あの膨大な量をどうやってまとめられるのか心配でしたけど。
美好 ネットで毎日読むのと、本という形で読むのとではまた感じ方が違ってくるので楽しみなんですよね。
唐沢 それこそ『夢声戦争日記』みたいに、“戦争”という大枠がある日記ならまとめやすいんだけど、こういうなんのテーマもなく、どこを切っても同じという日記はやりにくかったですね。一応、日記がスタートした1999年の9月から、今年6月のと学会東京大会までを期間的な枠にして、人気が高かった日とか自分なりに入れたい日をピックアップしてまとめることにしたんです。最初は構成担当のササキバラ・ゴウさんたちと、この4年間に起こった事件に対するコメントだけ抜粋した社会時評的なモノにして、村崎百郎さんとやってる『社会派くんがゆく!』と対になるようなものを考えてたんだけど、いざやってみたら異様に構成が難しくて、第一、ニュースに対するコメントを、思ったより書いていないことがわかった。
芦辺 それ、意外ですね。僕なんか最近は何か大きな事件が起きると、まず『裏モノ日記』の唐沢さんのコメントを読むようにしてますから(笑)、毎日コマめに書いてらっしゃると感じてたんですけど。
唐沢 過去の『日記』をよく読んでみるとわかるんですけど、僕がよく書いてるのは、事件そのものに対するコメントじゃなくて、事件に対する識者の反応に対するコメント、“事件のコメントへのコメント”なんですよ。これ、ニュースだけじゃなくて本に対してもそうで、読んでみると本そのものの書評より、本の書評の書評みたいなものが多い。読売新聞の書評欄なんか、日曜日には毎回何かしら書いてたりする。
たとえば夏に起こった長崎幼児殺害事件について、鴻池労相が「親は市中引き回しうえ、打ち首獄門にしろ」ってコメントしたニュース。あれ、単に鴻池発言がニュースに載っただけなら、別に無視してしてただけだと思うんですよ。或いは面白がって囃したかもしれない。不謹慎なことを言う、ってのが作家の役目でもありますから。ところが、あれに対してあちこちの掲示板周辺に鴻池を擁護するような発言がダーッと出てね。しかもそれを不謹慎でなく、正論として言っているような感じがうかがえた。不謹慎発言をメシのタネにする者として(笑)、あれはいかんと思ったんですよ。その線引きをきちんとしないと、こっちの仕事に差し支える。
浅野 鴻池発言そのものは、言ってみりゃクシャミみたいなもんですからね。あれに真面目に反応する人のほうがどうかしてる。
唐沢 で、結局、例によって叩かれた(笑)。同じようなケースでは、今年の春先に町山智浩さんが「TV BROS」誌上で『戦場のピアニスト』のユダヤ人問題について無知なことを書いた映画ライターを吊るし上げたことがあったけど、町山さんの資質や立場から、この発言はいかにも彼らしくていいんです。ところが、それにその立場もよくわからない若い連中が大喜びして飛びついて、このライターへのリンチみたいな状態になっていたので、あえて「町山さんの言ってることはわかるけど、業界人としてのTPOをわきまえないと」と、水かけることを書いたら、これもボロクソに言われた。
で、ようやくこのごろわかってきたんだけど、要は今の人たちって、何か“祭”が欲しいのね。日常性の連続に飽き果てていて、どこかに非日常として騒げる場が欲しい。それで、何か一人の人物を常軌を逸して褒め上げたり、くさしたりする行動に突っ走るのですな。非日常は確かに楽しい。でも、非日常の極限って戦争ですよ。日常を楽しむスタンスを人が持たないと、国は絶対に戦争を起こすってのが私の信念。何度も出すけど、『夢声戦争日記』が好きなのは、戦争という非日常のさ中で、あの人がとにかく、日常、つまり今日のオカズが何であったかとか、眼鏡がなくなった、また見つかった、というようなことにこだわった日記をつけていたことなんです。はるかにあの戦争の中枢にいた細川護貞の戦争日記なんか、そういう描写がほとんどないから、どこかよその話か、みたいな実感のなさなんですね。
芦辺 ちょっと話戻しますけど、さっきから話に出てる『夢声戦争日記』のほかに、『古川ロッパ昭和日記』も参考にしておられると思うんですけど、夢声とロッパって、やっぱり違いますか?
唐沢 違いますね。ロッパはやっぱり芸術家なんですよ。感覚至上主義ね。基本的に自分がすべての基準なんですよ。「これが気に食わない」となったら、その意見が間違っているかもしれない、なんてことは露も疑わない。ところが夢声の場合は、そこらへんの割り切りが悪い(笑)。自分はこう思うんだが、しかしそれを世間がどう受け止めるか、ということをちょっと考えてから発言する。俗物なんです、やっぱり。そこらへん、読んでの痛快さは夢声日記はロッパ日記にかなわない。でも、その俗物的な臆病さが、結局夢声をして、“日本の常識の代表”みたいな地位にした。偉くなったからいい、ってもんじゃないんですけどね。ただ、一生を通してみると、夢声とロッパと、どちらが言いたいことを言えた総量でまさったのか、と考えると、これは夢声だと思う。どんな発言も、行動も、結局人間は世間と自分との間で行われることなんですね。そこを意識して、世間に対する自分の意志表示ににワンクッション置けるかどうか、ここに送り手としての質が問われると思うんですよ。
芦辺 それだけこの2人の日記は、だいぶ読み込まれた?
唐沢 と、いうか、日記読むのが好きなんですね。山田風太郎の『戦中派不戦日記』とか、江國滋の『読書日記』、筒井康隆の『腹立半分日記』とかはいまだに読み返してますよ。だから僕にとっては無意識に日記ってのは公開することが前提のもの、なのかもしれない。
芦辺 でも、日記ってのは、公開/非公開を問わず、いまだに僕にはコワイものがあるんですよ。以前、伊集院光が東京でやってる番組をわざわざ大阪でループアンテナ立てて聴いていたら、「日常の中から面白いものを見つけよう」みたいな企画コーナーをやってたんですけど、そのなかで「新聞の縮刷版を読んで、大事件・大事故が起こった前日の新聞記事を見つける」ってのがあったんですよ。どういうことなのかというと、大事件・大事故の起こる前日ってのは、よほどのことがないかぎりその予兆ってのは感じとれないものだし、当然、その日の新聞はいたって平穏なことしか書かれていないわけです。ところが、縮刷版の次のページをめくると、とんでもない大事故の一部始終が一面にデカデカと掲載されている。それを読んだあとで、また前の日の新聞記事を見ると、次の日に何が起こるのかまったくわかってない記者が、バカみたいに呑気な記事を書いてるわけです。これって笑っちゃうけど、実はすごくコワイことなんですよね。
唐沢 うーん、さすがミステリー作家(笑)。阪神大震災の前日の新聞に、「私はこのまま一生、大事件にも見舞われずに平穏に過ごしていくのかと思うと、なんだか切なくなりますね」って神戸の主婦の投書が載ってたという都市伝説がありますが(笑)。でも、人の印象とか確かにコロコロ変わりますからね。まだ芸能プロダクションやっていた時代に、Oって業界ゴロがえらいこっちに迷惑かけたことがあるんだけど、そのときメモ替わりにつけていた日記には、最初の頃、Oのことをベタ褒めなんですね。“さすがわかっている人間は違う”とか(笑)。もう、それは自分の甘さで、日記つける際にはそこらは神様じゃないんだから、と覚悟してなきゃいけない。夢声だって、戦争が始まった頃はもう、日本軍の進撃に大バンザイしてますし。ところが、自分のそういう間違いを許せないって人がいて、そういう人はストレスたまるでしょうね。
美好 見込み違いはどうしてもありますよね。ああ、こんなだったんだ、と自分で思って終わるところを、書いてるせいでみんなに知られてて、ちょっと恥ずかしかったりします。みんな忘れててくれないかなと思ったり(笑)。
唐沢 逆に、思ってることと正反対のことを書くことで神経が安定するってこともありますね。非常に腹が立ったことでも、大したことなかった、と書くと、数日後に読み返してみると、本当に大したことなくなっているという。知り合いの女性に「死ね死ねノート」つけてる人がいる(笑)。腹が立った人間を全部リストアップして、そいつらをどうやって殺すか、その手段をを全部ノートにつけてるんだって。それって、数年後読み返して辛くないかしらん。
浅野 そうなると日常の自分と、日記書いてる自分に、精神が分裂して壊れちゃうんですよ。本人はストレス発散してるつもりかもしれないけど、実はそれはストレスに蓋をしてるだけなんだから。
唐沢 私も一時期、自分が死んだら発表するための裏日記をつけてたんだけど、仕事が2倍に増えるからヤメた(笑)。
芦辺 そう、日記つけるのって実は大変な労力でしょう。僕なら「日記書いた。あー疲れた。今日の仕事は終わり」って感じですよ(笑)。唐沢さんは、日記書くことがちゃんと本業のウォーミングアップになっているのが偉いですよね。僕なんか日記をやめちゃったのは、小説書くこと以外に必要以上のエネルギーをとられたくないからって部分もあるんですよ。
唐沢 いや、雑文もそうですよ。今は時間の使い方が上手くなったから両立できるけど、結婚した当初に、半分ぐらい本気で発表するつもりでつけていた日記を処女作(『ようこそカラサワ薬局へ』)の書き下ろしがスタートした時点で、とてもつけていられなくなって。考えてみれば食えるか食えないかの時代から、モノカキとして自立できるまでの過渡期の記録で、つけていれば貴重な自分史の資料になったんだけど、あれは惜しかったと思います。
芦辺 僕の場合は、日記をつけてたのは、さっき言ったような会社の鬱憤晴らしのためと、文章を書こうという意欲が、まだ小説に向かってなかったってこともありますね。小説書くことのの代償行為として日記をつけていたのかもしてません。だから、いざ小説を書く機会に恵まれるようになったら、逆に日記を書く必要がなくなっちゃったんですよ。
浅野 昔、八谷和彦さんが「メガ日記」っていうプロジェクトを立ち上げたことがあって、100人の人が100日間、同時多発的に日記を書くっていう内容で、面白くて僕も参加してたんですけど、不思議なのはみんな一斉に調子のいい日と一斉に調子の悪い日、ってのがあるんですよ(笑)。なんなんでしょうね、あれは。
唐沢 そりゃ、気圧ですよ、気圧(笑)。あれは私、日記つけていて気がつきましたね。あ、オレは気圧に支配されている人間なんだ、って。これって、天気模様と自分の仕事の進み具合を並列して記載していたから発見できたことですよ。だから、雨の季節は意識してサウナで汗を流して調節するとかして、なんとか書けるコンディションに持っていくようにしてます。だから、役に立つ日記ってのは、どうでもいいことでもかまわずなんでも書いてる日記なんですよ。そのことを私は美好さんの日記から学んだ(笑)。
美好 ホントにどうでもいいこと書きますからね、「昼寝サイコー」とか(笑)。結婚前にダンナから怒られましたよ、「自分のノートに書くべきことを公開日記で書くんじゃない」って(笑)。
唐沢 でも美好さんの日記で、「日記を書くことの魅力」を再確認できたんですよ。要するに日常の些細な事柄の眼福というか、どれだけ日々の平凡な記録から読むに足るだけの魔力を引き出せるかってことだと思うんです。今回の本の解説にも書いたことだけど、現代小説がありとあらゆる技法を駆使しながらあんまり面白くないのは、“日記”的な要素の必要性が忘れられているからなんじゃないか。ディケンズやマンの小説なんて、ほとんど日常の何気ない描写で成り立っているようなもんでしょ。一見退屈に感じるかもしれないけど、こういう“日記的”記述はハマるとヤミツキになる。ブロンテの『嵐が丘』とかディケンズの『二都物語』なんかはお話は波瀾万丈でも、そこには執拗なまでの日常の描写がある。「この時代はどういうことが起こって、この町はどう変わって、この人物はどういう生まれで、その友人は毎日どういうことをしていて……」って延々と細かく描写するんだけど、実は読んでていちばん面白いのはそういうところなんですよね。
芦辺 バルザックなんてまず、アパルトマンの細かい描写から入りますもんね。こないだ久々にドストエフスキー読んでみたら、あまりに何でもかんでもしつこく描写したりするんで、「ドストエフスキーってこんなベタベタな作家やったかなあ」って思いましたよ(笑)。
浅野 江戸時代の旗本で日記をつけてた人の記録が残ってるんですけど、これが「旗本退屈日記」というか、ロクに仕事もしてないで遊び呆けているだけのヒドい内容で(笑)、でも、いまとなってはすごく貴重な記録なんですよね。江戸のお偉いさんの日常って、僕らが時代劇で見るようなものとは、まるで違うんだなあって。
唐沢 谷沢永一さんが「江戸時代に書かれた書物で、高邁な思想とか社会論を唱えたものは全て、いまは読む価値がゼロ。その時代の日常の細かな記録を書いたものだけが残っていく」って言ってた。いまだって同じことが言えるわけで、若手の文化人に対して、「大きな物語の終焉」だの「文明の衝突」だの偉そうなテーマについてうだうだ書いている暇があったら、今朝オマエが何食ったかをキチンと書け、そっちの方が絶対後世に残る資料になるから、って言いたいの。それをショボいと思うのは近視眼的なんですよ。
芦辺 そういう意味じゃ、21世紀の日本の都市生活者がどういう生き方をしていたか、『裏モノ日記』は、後世の人がそれを知るための絶好の資料になるわけですよね。
唐沢 それはいいけど、だけど後世の人はこの『裏モノ日記』読んでどう思うのかね。「なるほど、21世紀初頭の日本人は、朝起きてまずダジャレを考えて、気圧に悩まされながら原稿書いて、『時間割』で何度も何度も打ち合わせして、夜はカミさんに説教されながらメシ食ってたのか」って思われたらかなわんかも(笑)。
(了)
|