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2013年8月23日投稿

映画人として、軍人として 【訃報 梶田興治】

東宝で長く助監督を務め『ゴジラ』(54)等につき、後にテレビ『ウルトラQ』で『マンモスフラワー』『甘い蜜の恐怖』『変身』『悪魔ッ子』『206便消滅す』を演出した監督、梶田興治氏、8月18日死去。89歳。

ゼロ戦のパイロットとして終戦を迎え、戦後の東宝で、上記『ゴジラ』の本多猪四郎をはじめ、成瀬巳喜男、マキノ正博、松林宗恵、古沢憲吾という、日本映画黄金時代をになう名監督たちにつき、その作品作りを支えた。特技監督として後に名をなす中野昭慶氏は、東宝入社時、チーフ助監督だった梶田氏からカチンコの叩き方の特訓を受け、その厳しさに驚いたという。軍隊経験あるものとしてのポリシーによる、新兵教育だったのだろう。

梶田監督の思い出として、まず脳裏に浮かぶのが、その立ち姿の素晴らしかったことである。本多きみ夫人(本多猪四郎監督未亡人)を迎えての新宿ロフトプラスワンでのトークの帰り、駅のホームに立つその姿のすっきりとしたシルエットは、周囲にたむろしている若者たちのそれとはあきらかに異った、“美学”を感じさせるものだった。軍隊経験とはこういうものか、と思ったものだった。

『ウルトラQ』を見る限り、その演出にも梶田監督らしい折り目正しいトーンが一貫して通っている。金城哲夫の脚本の、自由教育を受けた世代らしい奔放さに、かなり現場で苦言を呈したらしい。

面白いことに、助監督としてつき、名コンビと謳われた本多猪四郎監督は、下士官で長い兵隊生活を終えた。陸と空の違いはあれど、エリートとして士官教育を受けた梶田監督とは、戦後の映画界で立場が違ってしまったわけだ。しかし、本多監督には徹底した忠誠を尽くし、その尊敬の念は生涯変わることがなかった。本多監督もまた、東宝に
「スケジュールの許す限り、梶田を自分につけてくれ」
と談判するほど、梶田監督を信頼していた。その有能さは、『キングコング対ゴジラ』(62)で、本多監督が崖の上から滑落するという事故を起こし、撮影が中断されたとき、見事に現場を仕切って、監督の復帰までの撮影をつなぎ、スケジュールを遅滞させなかった手腕からもわかる。

生涯で唯一、本多監督の不興をかったのは、東宝を退職してからの本多監督が、後期の黒澤明映画に演出補佐としてついたとき、酒の席で、アルコールの勢いを借りて
「いくら世界の黒澤と言っても、監督だって世界の本多猪四郎じゃないですか。なぜ、今さら補佐などという位置につくんです」
と“からんだ”ときだった。本多監督は温厚な表情をその時だけは曇らせて、
「俺とクロさんは特別な間柄なんだ。口をはさむな」
とだけ言って、席を立ってしまったという。

「あれは生涯の失敗だった」
と梶田監督はそれを私に語って頭をかいておられたが、私は、それこそエリート軍人の折り目正しさをもった梶田監督が、酒の勢いで人にからむということが信じられず、きみ夫人に本当のことかどうか確認してみた。きみ夫人は笑って、
「梶ちゃんはよくうちのパーティでべろべろになって立ち上がれなくなって、かつがれて帰っていたわよ」
と旧悪を暴露して梶田監督を恐縮させていた。日頃自らを律することに厳しい梶田監督も、本多監督の前だけでは、本当に心を許し、ハメを外しておられたのだろう。信頼関係がよくわかるエピソードだ。

一方で、田中友幸プロデューサーについては、かなり辛辣な目で見ておられた。あるとき、ゴジラの記事を書いた某新聞の記者が、田中氏がすでに亡くなられていると知らず、
「田中さんのお話を聞きたいのですが、どこに行けば会えますか?」
と電話をかけてきたとき、梶田監督は
「そうですなあ、地獄に行けば会えるんじゃないですかなあ。うん、まず天国には行ってないでしょうからなあ」
と皮肉たっぷりに答えたという。
現場の最前線にいる助監督にとり、予算や時間のことで何かと制限をかけてくるプロデューサーは「敵」だったのだろう。

もちろん、助監督として重宝されるということは、自らの監督昇進が遅れるということである。『ウルトラQ』で一平役でレギュラー入りした西條康彦氏は、丸の内のお堀端での初ロケのシーンで、梶田監督が「スタート!」と声をかけたとき、
「もう、嬉しくってねえ。梶ちゃんは名助監督過ぎて、いろんな監督が彼を離そうとせず、監督昇進が遅れて、ついに東宝じゃ(自分の作品を)撮れなかったんだ。だから、梶ちゃんがカメラの脇で“スタート!”と言うとこを見たくて、つい、お堀(に浮いているマンモスフラワーの根)じゃなくて梶ちゃんの方見ちゃってね。だから梶ちゃんの初撮影カットは、僕のせいでNGだったの」
と語っている(未刊行インタビューにて)。もちろん、東宝は後にまた梶田監督を呼び戻して、制作事務を担当させたが、1本でもいい、スクリーンで本多猪四郎、成瀬巳喜男譲りの、梶田演出作品を観たかった、というのは映画ファンとして当然の望みだろう。

一度、ホテルのロビーで並んでのスナップ写真をねだったことがある。そのとき監督は、さっとガラス窓のところに(ご高齢とは思えぬ足の早さで)駆け寄って、櫛を撮り出し、窓を鏡代わりにして髪を調えられた。それを見たとき、あ、これが黄金時代の映画人の持つおしゃれ感覚なのだな、と、ホームでの軍人らしい立ち姿を見たときと同じ感動を得た。映画の黄金時代の体現として、梶田興治という人は、われわれにその一端を垣間見せてくれていた。

歴史とわれわれを結ぶ証人がまた一人、この世を去った。年齢に不足はないとはいえ、近しくお話を伺う機会が永久に失われたのは悲しい。“天国”で、本多監督とまた親しく戦争話に花を咲かせていらっしゃるだろうか。きみ夫人によると
「あの二人、しょっちゅう戦争の話ばかりしていたわね。映画の話なんかしているの見たことない」
とのことだった。お二人にとり、映画は語るものでなく、撮るものだったのだろう。まさしく、プロ、だったのだ。

ご冥福をお祈りする。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa