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2012年10月15日投稿

忠臣蔵と日本語、そしてアベサダ 【訃報 丸谷才一】

10月13日、心不全にて死去。87歳。

『男のポケット』をはじめとするエッセイは、そのどれもが極上の工芸品を思わせる細工とユーモアに満ちた、逸品中の逸品だった。

『忠臣蔵とは何か』は、誰もが知っている(と思っていた)江戸時代のイメージを芝居の話ひとつでがらりと変えてしまう、知的興奮の書であった。

『食通知つたかぶり』は、後のグルメブームのさきがけを行く、痛快な食い倒れの記録だった。味覚の大半はそれを表現する教養が支えている、ということを証明する書でもあった。

『文章読本』における文章作法の極意「ちよつと気取つてかけ」には、よくぞ言ってくれた、と膝を打ちたい気分になった。思ったことをそのまま素直に、と繰り返し学校の国語で強制されていたことに、ずっと違和感を感じ続けていたのだ。

『四畳半襖の下張り』裁判(友人の野坂昭如が永井荷風作とされるポルノ小説を雑誌に掲載した)で弁護人をかってでた行動力も素晴らしく、その騒動を単に法律上の問題でなく、見事にエンタテインメント化してしまう演出力を見せていた。法律から言えば被告・野坂は敗訴するに決まっている、なら、これを大々的に世間に喧伝することで、わいせつ裁判そのもののナンセンス性を日の下にさらしてしまおうという意地悪な意図に満ちていた。有罪判決が出たときのニュースのインタビューで、
「もし、判決にあるように、人前で行うことをはばかる行為を描写することが罪だというのであるならば、私は人前でヘソのゴマを取ることはしないが、もし私がヘソのゴマを取る描写を克明にしたならば、この裁判官はそれを罪とするのか」
と憤っていた(ふりをしていた?)のは、法という無粋なものに対する徹底したからかいをこめたジョークであった。

『忠臣蔵とは何か』には、専門の歴史学の方からはいろいろと批判が出たが、丸谷氏は、
「作家の論考はまず新しい視点があり、次にその論理展開が面白いことが大事」
であり、
ついでに正しければもっといい
というくらいのスタンスである、とすまして、その批判をかわして(はぐらかして)いた。これは私も大方で同意する。学問の世界における研究と、一般大衆に向けての論考は、アマチュアレスリングとプロレスくらいの違いがある。その後丸谷氏は『日本文学史早わかり』『ゴシップ的日本語論』など、さまざまなユニーク極まる論考を発表するが、いずれも、正しさよりは視点の面白さを主体とし、その上でのアクロバット的な論理展開を主眼としたものだった。にも関わらず、そこにうさんくささの一片もなく、芳醇な”教養“の香りが漂っていたのは、見事というしかない。

かく、丸谷才一という人は、われわれの世代にとり、その存在そのものが文壇、その存在そのものが教養、というイメージのある巨大な存在だった。氏が紹介する学者や文学者、文芸誌編集者たちのゴシップは、いずれもどこにソースがあるのか不明のうわさ話であるが、文壇というエリート集団が、実はこんなに人間くさい生き物なのだという巧妙なプロパガンダになっていた。

親友であった百目鬼恭三郎は、丸谷氏がエッセイで披露する知識には勘違い間違いが多い、と指摘しながらも、その好奇心の幅の広さと、何かを人(読者)に伝えるために徹底してサービス精神を発揮する彼の文章のあり方を絶賛していた。教養人が、その教養を筐底に秘めず、ウインドウにさらしてみせる大衆性を持ち合わせていた、と言えるだろう。

ただ、これは私の理解力の問題にもよるのだろうが、丸谷氏の本業であるところの小説作品のみは、どうしても好みに合わなかった。丸谷氏の小説で面白い、と思ったのは、処女作である『エホバの顔を避けて』一作である。

この、売れなかったことに関して伝説的な作品は、聖書にあるヨナの物語を下敷きに、神と人間との断絶、しかしそれでもなお信仰によってしか自我を確立できない人間という存在の悲劇と喜劇を描き、最終章においてのヨナの思考の崩壊(溶解)に到る構成は凄まじいの一言だった。これに比べると、話題になった『たつた一人の反乱』も、『裏声で歌へ君が代』も、さまざまな知的仕掛けに満ちていることはわかっても、どこかピンとこなかった(『樹影譚』のような短編には掬すべきものもあるが)。

丸谷氏は、自分の小説を風俗小説と位置づけ、現代日本の風俗(政治・文化的状況)と文学性との両立、融合を目指していたが、私のような若造(当時)からみても、日本の風俗状況と丸谷氏の理想とする知性・教養主義とは相反しすぎ、融合にはほど遠いものがあったように思う(第一、あの“旧かなづかひ”墨守の姿勢で現代を描こうということ自体にちょっと無理がある)。丸谷氏が風俗ゴシップを通じて“文壇”の幻想を作り上げられたのは、それがあくまで閉鎖的・限定的な世界だったからなのだ。

丸谷氏が理想とした風俗小説は、ディケンズなどに代表される、節度ある19世紀風俗小説であり、20世紀末の、なんでもありの風俗ではなかった。ここらへんが“文壇人”丸谷才一の限界だったろう。今にあって現代風俗を描こうとすると、それはどうしても悪趣味の領域、丸谷氏の最も嫌う俗悪な文化の世界に足を踏み入れねばならなくなる。1985年、文芸春秋が、ブームに乗っかろうと写真雑誌『EMMA(エンマ)』を発行し、丸谷氏に連載エッセイを依頼したが、文芸誌に掲載されるとあれほど光る氏のエッセイが、悪趣味的好奇心の極みである写真雑誌では、どうにもその教養主義が場違いなものとして“浮いた”存在になっていたのは、その象徴だったように思う。丸谷氏が先達とあおぐ石川淳のように、潤沢な教養を踏み台にしての、現実社会からの軽やかな脱却を目指した方がよくはなかったか、と、僭越の極みながらずっと思っていた。上記エッセイを
「EMMAの良心だった」
と評価した評論家の向井敏が、別の場所で
私は丸谷才一の小説をエッセイを読むつもりで読んでいる
と指摘したのは、そこらへんをやんわりと表現したものだろう。

そんな丸谷氏が、唯一愛した悪趣味が阿部定事件であった、というのが私にはほほえましく感じられる。氏は定の生き方を、当時の日本を支配しはじめていた軍国主義、全体主義に抵抗する象徴として見た。
「彼女にとっては、誕生と交合と死による自然的世界だけが重要で、戦争とか革命とか政権の交替とか王朝の興亡とか、そんなことは眼中にないんですね。つまり歴史的世界はどうでもいい」『阿部定問題』(文芸春秋社刊『男もの女もの』より)
これは裏を返せば、戦争や革命や政権の交替に言及した小説を書かざるを得なかった丸谷氏が、秘かに自分の理想を阿部定に託した言葉だったのではなかったかしらん。

R.I.P.

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