イベント
2012年9月22日投稿
マカロニのセンス 【訃報 カルロ・ランバルディ】
8月10日、死去。86歳。
アンディ・ウォーホル「総」監督作品、と銘打って公開された(友人のポール・モリセイに名義貸ししただけと言われているが、日本初公開時のポスターにはウォーホルの名前ばかりで、モリセイのモの字もなかった)『悪魔のはらわた』(1973)で、フランケンシュタイン博士が大バサミで人間の首をチョン切ると、ハサミの上でその首がちゃんと“目を閉じる”。さらに、ラストで博士が背中から槍で刺されると、その腹から突き出た槍の先っちょに串刺しにされている内蔵が、立体映像で(この作品は3D映画だった)こちらに迫り、それがぴくぴくと動く。初見のとき、あまりのバカバカしさにかえって感動してしまったほどである。
この仕掛を作ったのがカルロ・ランバルディである。いかにもイタリアといった感じの(本作品はアメリカ・イタリア・フランス共同製作)、エログロの俗を極めた末にアート(特殊アートではあるが)に足を踏み込んだおもむきの映像美術であった。
このどぎついハッタリ性は娯楽映画のある種の本質をついており、そこらを認知していたのが、同じイタリア出身のプロデューサー、ディノ・デ・ラウレンティスだった。1976年、ハリウッドに乗り込んできたラウレンティスは裁判でユニバーサル映画が製作中だった『キング・コング』(1933)のリメイク権をもぎとり、その造型をランバルディにまかせ、彼は実物大の巨大なロボット・コングを作って、大いに話題を馳せた。
……実のところ、ランバルディの作ったコングはほとんど作動せぬ期待外れのシロモノで、本編では自主映画出身の若いサル造型オタク、リック・ベイカーが自らコングスーツを身にまとって演じていたのだが、しかしこの作品でアカデミー賞受賞などの栄誉を独り占めにしたのはランバルディの方だった。
その後、ランバルディはアカデミー賞のカンバンを背負って70年代末から80年代にかけてのSFXブームの大御所として活躍する。『未知との遭遇』(1977)『エイリアン』(1979)『E.T.』(1982)の三大宇宙人映画のクリエーチャー製作にかかわったのだから凄いものである。
とはいえ、ランバルディの仕事の評価はSF映画ファンの間では芳しいものではない。すぐに特殊メイク界の寵児となったリック・ベイカーや、その奇想で時には映画自体を食ってしまう映像効果を見せるロブ・ボッティン、さらには自ら監督と操演の両方を務めるジム・ヘンソンなど、SFXオタク出のアーティストに比べると、ランバルディの造型センスはどうも大味で粗っぽいのである。それかあらぬか、彼のことを追悼の辞でピノキオにおけるゼペット爺さんに例えて絶賛したスティーブン・スピルバーグは、その一方でDVD版において、『E.T.』の表情の動きなどの大部分をCGに差し替えている。日本において、その名を記憶されている『REX恐竜物語』(1993)の恐竜造型の出来の悪さも、その評価を下げる一因となった(まあ、映画自体アレだったのであるが)。
しかしながら、今、思い返して見るとわれわれの世代にとって、やはりランバルディの存在は大きい。仕掛をほどこしたぬいぐるみが、堂々と画面の中央でスターとして扱われた80年代の特撮映画シーンの、良くも悪くも象徴だったのがランバルディだった(『E.T.』の時の彼の談話に「マーロン・ブランドもジョン・トラボルタもいらない時代が来たんだ」というのがある)。CGの、緻密だがどこか薄っぺらい画面に比べ、彼の造型物には確かな“モノ”の存在感があった。
彼が初期の作品で見せたイタリア的悪趣味を大作映画で再現させたのが、悪趣味では人後に落ちないキチガイ監督(ホメ言葉)、デビッド・リンチだった。彼の壮大な失敗作『デューン・砂の惑星』(84。プロデューサーはディノ・デ・ラウレンティスの娘、ラファエラ)における、皮膚病にかかったキ×タマみたいなギルド・ナビゲーターのデザインは、かつての『悪魔のはらわた』の時代の、ランバルディの“カツドウ屋”的感覚の片鱗を再び見せてくれた創造物であったと思う。
偉大なるマカロニ特撮野郎の仕事を、暗い映画館の隅っこでハラハラドキドキしながら観ていた者として、心からの感謝と、追悼を送りたい。