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2012年9月14日投稿
昭和の音 【訃報・横森良造】
8月27日、心不全で死去。79歳。
私の伯父(小野栄一)にとっては全盛期の舞台での最良のパートナー、私にとっては交流ある演劇ユニット『トツゲキ倶楽部』の主宰者、横森文さんのお父上であった。にこやかな表情で、時にパイプを口にくわえながらアコーディオンを奏でる姿が、その伴奏で歌う芸人さんより立派に見えたこともある。すべるように滑らかなその演奏を思い浮かべるとき、昭和の芸能界を象徴するのは横森良造のアコーディオンの音だったのではないか、と改めて思う。
ゆうきまさみ原作のOVA『アッセンブル・インサート』(1989)でワンシーン、横森良造本人のアコーディオン演奏が流れるが、これは演出の知吹愛弓が五代目春風亭柳昇の息子さんだったことで実現したギャグだろう。柳昇師匠もまた、横森先生とはよく仕事をしていた。
現在のように音をいくらでもネットから引っ張れる時代、その前はテープだったが、さらにその前、生演奏しか手段がなかった時代、アコーディオンは一台でバンドを構成できる至便の楽器であった。徳川夢声の日記を読むと、司会を担当した地方での歌謡ショーなどで、戦中戦後の混乱期、“アコ氏来らず”などと困惑している記述がよくある。地方興行などで、アコーディオン奏者がいないと、演芸会自体が成立しないのである。それほど大事な楽器であった。
横森良造、長島史幸といったアコーディオン奏者は、伴奏というより舞台の進行監督であった。林家三平など、漫談で出るときは横森氏の方を常にうかがいながら高座をつとめていた。若手の歌手が
「音あわせをお願いします」
などと言ってくると、
「歌ってくれりゃいい、どう歌おうとちゃんと合わせてあげるから」
と、ハナであしらわれたそうである。
それだけに個性の強烈な人物が多く、演芸プロダクション時代、アコ奏者の飲み会(横森先生はいらっしゃらなかったが)に使い走りで参加させてもらったときには、そのプライドの高さにちょっと圧倒されたものである。
「俺たちがいなければどんな人気歌手だって仕事が出来ねえんだ」
とあげる気炎が、伊達ではない感じがした。
もっとも、舞台の中央に立つのはあくまでも歌手、芸人である。アコ奏者はどんな偉い先生でも、脇に立って、伴奏に徹しないといけない。長島史幸先生などは真ん中に出たがって出たがって仕方のない人で、常に芸人とからみたがり、煙たがられていた。あるとき、うちの伯父のマネージャーが、
「史幸ちゃんは、あの癖さえなければ天下を取れたんだが」
としみじみつぶやいていたのを覚えている。その点に関しても、横森良造先生はプロ中のプロ、天下をとった人だった。
……もちろん、私がかかわった当時はすでに主流はテープ演奏になっていたが、テープは持っていった本数の曲しか流せない。横森・長島クラスだと、クラシックから流行歌、シャンソン、端唄小唄の類にいたるまで、持ち曲は千曲近くあったろう。地方でどんな曲のリクエストがあっても対応できるのは、やはりアコーディオンであった(JASRACがうるさくない頃でもあった)。もちろん、ギャラは高い。テープでなく、アコーディオン奏者をつけて地方興行に出かけられるのは稼いでいる芸能人の特権のようなものだった。
最近、舞台を作る作業にかかわってみると、音響の進歩には驚くばかりである。私は事前にいろいろ音楽を揃える方だが、演出家によっては、ゲネプロのとき音響係に“ここで、こんな感じの曲を流せる?”と言う即興の注文を出す人がいる。すると、ネットから即座に探し出して曲を流してくれるのである。以前、それが凄まじく達者な音響さんに
「平成の横森良造だね」
と言ったが、彼は横森氏を知らなかった。昭和は遠くなりにけり。
娘さんの文さんにお悔やみメールを送ったら、
「とにかく、今は頑張って芝居を作っていきます!」
と返事があった。演芸と演劇の差はあれ、舞台の血は受けつがれている。安心してお眠りください。