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2012年4月11日投稿

他の役で受けた男 【訃報 青野武】

第一次怪獣ブームの昭和41〜2年に怪獣図鑑のソノシート
が流行ったことがあった。怪獣の鳴き声がいろいろ入っているのだが、
その中でザラブ星人は、鳴き声ではなく話している声で、
「第8銀河系にあるザラブ星……ハハハハ」
などというセリフが入っていた。
私と弟は、そのソノシートをスリ切れるくらい聞いていた。
この声と、スーツの中に実際に入って演技をしていたのが青野武。
たぶん、子供時代に最も繰り返しその声を聞いた声優さんではなかった
かと思う。

もっとも、当時はその声はノンクレジットであり、青野武とザラブ
星人が結びつくのは、ずっと先のことである。当時青野武の名前は、
『じゃじゃ馬億万長者』のちょっと足りない甥っ子、ジェスロの役で
記憶していた。それと地球人を幼い弟と呼ぶインテリ(?)宇宙人の
役のイメージは全くクロスしなかった。

青野氏は生前、自分の主宰する劇団『芸協』のサイトやパンフレット
に『役者一筋』という自伝を書いておられた。
http://www1.hinocatv.ne.jp/wildcats/aono1kara.htm
高校時代に演劇にハマったのは、戦後興った新劇ブームの余波であり、
同じく北海道の地で、こないだ亡くなった左右田一平氏などもその魅力に
取り憑かれていた。新劇ブームは北の地でそれだけ大きく広がっていた
のである。青野氏の一生は、こういうムーブメントに非常に恵まれている。
演劇の世界に飛び込んだのも先ほど言った新劇の戦後のブームにうまく
人生が合致したからだし、その役者人生に“声優”というファクターが
加わったのも、テレビの勃興期、洋画吹き替えのニーズが高まったからだった。
そして、代表作の『ヤマト』の真田志郎役で、世をあげてのアニメブームにも
合致する人生を送ることになる……。幸運児、と言えるだろう。

とはいえ、声優という仕事は、現在のような華やかな仕事では決して
なかった。昭和35年にTV西部劇『ブロンコ』で、仮にも主役を
演じた
にも関わらず、それから6年も経った昭和41年になって、宇宙人の
ぬいぐるみに入って演技する仕事、などというものを受けている。
後にこの仕事は青野氏にとっても、その仕事歴に残るものとなるが、
当時の役者へのオファーとして、あまりいい仕事でないことは確かである。
たぶん、劇団の公演費用を稼ぐためのアルバイトという認識で、どんな
仕事も断わらずに受けていたのだろう。

ただ、世上、このザラブ星人役について、最初声だけのつもりで
現場に行ったらぬいぐるみが用意されて着せられたとか、声だけでは
満足する芝居が出来ないので現場で青野氏が入ることになった、とか
言われているが、青野氏が私に語ってくれたところでは、最初から劇団に、
声がよくてぬいぐるみを着て芝居も出来る役者が誰かいないかという話が
円谷プロからあったという。
考えてみればあんな身体にピッタリしたスーツ、青野氏の体型に合わせて
作らないと着られるわけがない。あの、ザラブ星人の口が動いている
のは、青野氏の呼吸に合わせてであり、生物感が非常によく出ている。

青野氏が倒れられる数ヶ月前に私はインタビューを申し込んで、お会い
することが出来た。恐らく最後のインタビューだったと思う。そして、
それから一ヶ月ほど経って、青野氏演出(一部出演)の舞台も観ることが
出来た。人情としてこれを喜びたくはないが、しかし貴重な話をうかがうことが
出来たのは不幸中の幸いだった。その時に訊いたのは、青野氏の、特に
後期の芝居(アニメ『バットマン』のジョーカー役など)に見られる
“歌い調子”的なイントネーションはどこで身に付けたものか、ということだった。

「あ、あれはね、『モンティ・パイソン』のマイケル・ペイリンを
演ったとき」
「そうなんですか」
「うん、東京12チャンネルでね、そのとき翻訳してくれた人が、演じることを
何も考慮しないで、直訳みたいに訳したものを台本にしたんだよ。だから、
尺(しゃべりとセリフの長さ)が、全然合わないの。(広川)太一っちゃんは
その足りない分をあの“したりしちゃったりなんかしてかに……”なんて
口調で埋めて、僕は“これはァァどうなッてるのかァとォ申しますとォォ……”
みたいな感じで、セリフとセリフの間を延ばしてしゃべったのよ。それが
いわゆるモンティ調と呼ばれるようになったんだね。面白いって言うんで、
その後の演出家さんたちが“ああいう風にしゃべってよ”と言い出して……」
ということだった。

ただ、その言をそのまま信じるということもどうかと思う。
青野さんのあの調子は初期の『じゃじゃ馬……』の頃から原型があったし、
モンティ・パイソンの日本放映に先駆けて、日本テレビで放映された
シドニー・ルメットの法廷ドラマ映画『十二人の怒れる男』で、青野氏の
吹き替えた陪審員7番(ジャック・ウォーデン)のセリフに、あきらかに
ペイリンにつながる歌い調子が確認できる。

……それにしてもこの『十二人の怒れる男』の吹き替え(現在販売されて
いるDVDに収録)は青野氏の他、内田稔、矢田稔、鈴木瑞穂、金井大
などベテランたちが勢ぞろいし、原語以上に素晴らしい対話劇を
聞かせてくれている。私は青野氏の代表作といったら、これを推したい。

私と一緒に青野氏にインタビューを行った高嶋一般くんによると、
青二プロダクションの声優フェスティバルに青野氏がスペシャル・ゲスト
で出たという。満場を埋めたファンたちは、若手アイドル声優たちの
追っかけばかりで、青野氏が出てきて紹介されても、いまいちピンと
来ない世代ばかりだったそうだ。ところが、氏がマイクを握って
ひとことしゃべっただけで、
「あ、あの声の人か!」
とみんな気づき、大歓声、大拍手が巻き起こったという。まさに、
半世紀の長きにわたり、アニメファンたちを“育ててきた”声、
なのである。

あまりに知己を得るのが遅すぎたという悔いは残る。
もっと早くにお会いして、いろいろな草創期のお話をぜひ、お聞き
したかった。せめて、最後のインタビューが出来たことを慰めに、
これを早くまとめることが私なりの追悼となるだろう。
それを泉下の青野さんにお約束するしかない。

それにしても、上記『役者一筋』にある、宇宙戦艦ヤマトの声優オーディション
時のエピソードで、
「私のオーディションの役はどの役だったか失念しているんですが、
終わって帰ろうとすると、その時のヤマトのプロデューサーである
西崎さんが“ちょっと君、こっちの役も演ってみなさい”と言われた
のが、真田志郎の役でした。オーディションを受けた役は駄目で、
ついでに受けた役が決まったんです。それが真田志郎の役でした」
という証言があることである。
いったい、最初に青野氏が受けた役というのは何だったのだろう。
古代守か、それともデスラーか。ヤマトに詳しい人たちに訊いてみたのだが、
わからないとのことだった。もちろん、今にしてみれば真田さんの役でよかった、
と思えるのではあるが。

R.I.P.

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