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2012年3月8日投稿

混沌の中の足跡 【訃報 矢元照雄】

http://amba.to/yEf498
俳優の久保新二氏のブログによると、映画制作会社・国映の創業者、
矢元照雄氏が3月6日、亡くなったらしい。101歳(後で確認したところ
亡くなったのは5日)。
国映と言えばピンク映画で有名にな制作会社で、矢元氏もその手の映画の
プロデューサーとして名をはせるが、1965年、当時の第一次テレビアニメ
ブームに乗って、子会社アニメ制作会社『日本放送映画株式会社(日放映)』
を設立する。

矢元氏はそこで企画・制作者として、第一作『戦え! オスパー』
を世に送り出す。
http://dai.ly/hSOeAf
虫プロから村野守美氏や富野喜幸氏などを呼んで参加させたのも、
矢元氏の功績であろう。
http://kiokunokasabuta.web.fc2.com/nihontvdouga.html
日放映のその後は↑ここのサイトにくわしい。

結局、日放映はこのオスパーと『飛び出せ! バッチリ』『冒険少年
シャダー』の三本を製作したのみで解散し、矢元氏もアニメからは離れる
が、当時リアルタイムでこれらの番組を見ていた(『シャダー』のみは
見てなかったが、なぜかソノシートが家にあり、主題歌はソラで歌える。
そう言えばオスパーとシャダーはどちらも主題歌の作詞が寺山修司だ。
彼を起用したのも矢元氏なのだろうか?)世代としては印象に残る作品
ばかりだ。『戦え! オスパー』のドロメは美形悪役の元祖の一人だと思うし、
1967年、家にカラーテレビが入って、最初に見たのが『バッチリ』
だった。この時代に、実はカラーのアニメというのはまだ珍しかったのだ。
だから、同じ日に、子供の目にもあきらかにこっちの方が金がかかって
いるはずの『おらぁグズラだど』を見たとき、白黒だったのでガッカリ
したものであった。『バッチリ』『シャダー』の帯番組アニメという
のも、この日放映が開拓した枠である。矢元照雄という人の先見の明を
改めて考える。

矢元氏は北海道で終戦を迎え、材木商で財をなし、東京で金融業をはじめ、
後に映画畑へ進出、教育映画を製作していたが、やがてエロ映画がブーム
になるとすぐそちらへ乗換え、ピンク映画の制作者になる。
その人生行路を見ていると、まさに混沌といった感じがする。

ピンク映画と子供向けアニメ。
まったくベクトルの異るように見えるこの二つの世界で製作を担当する
などということは、草創期、もっと言えば混乱期の中でしか出来ない
ことだろう。その混沌の中で、矢元氏はしっかりとアニメ史に足跡を
残した。ウォルト・ディズニーの生誕は去年(2011)で110周年
だが、矢元氏の享年が101歳、ほぼ同世代であったことを思うと、
日本のアニメというのも、アメリカの後を追って、それなりの歴史を
刻んでいたんだな、と改めて思う。

ディズニーやジブリばかりでアニメは語れない。B級ではあったが、
それだけ子供の日常に密着していた、こういう作品が築いた上に、
いまやNHKでさえ特集される、日本のアニメ文化というものが花開いて
いる。

そうそう、矢元氏は日放映でアニメを製作していたのと同時期に、
国映で日本映画史に残る怪作・『荒野のダッチワイフ』を製作している。
この監督・脚本を担当したのが、後に『ルパン三世』にも関わること
になる大和屋竺。人と人はいろいろとつながり、
歴史を作り、そして去っていく。
黙祷を捧げたい。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa