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2012年2月24日投稿

義理堅かった男【訃報・奥中惇夫】

『柔道一直線』『ロボット刑事』『がんばれ!ロボコン』『快傑ズバット』
等、東映ヒーローものの中でもちょっと毛色の変わった、言って
みれば泥臭い根性もの、といった風の強い作品をいくつも撮った
監督だった。

東京大学文学部美学美術史学科で学ぶ。同じ学科に、後に変身ヒーロー
ブームの黄金時代を共に築いた平山亨がいたのは奇遇だろう。
新東宝に入社した奥中氏を見て平山氏は実にうらやましかった
そうである。
「あんな大会社に入れていいなあ、とね。その当時は東映なんて、
いつつぶれるかわからない会社と言われていたから」

しかし、運命は逆転して新東宝は1961年に倒産。奥中氏は東映
京都撮影所と助監督契約、サード(一番下っ端の助監督)から再び
やらされるという屈辱を舐めながら、映画の現場に立ち続ける。
しかしそこも映画の斜陽で規模縮小、
「テレビでも何でも、早く監督になった方が勝ちだ」
という恩師渡辺邦男の言葉にしたがって、東映テレビ部へ移り、
『鉄道公安36号』で初監督。『特別機動捜査官』などを演出するが、
1967年、会社がスタッフの社員保証を嫌がったためフリーとなる。
フリー契約というのはスタッフの集中力が続かず、作品の質にも
影響する、と奥中はその著書『仮面ライダーがエントツの上に立った日』
(筑摩書房)で語っているが、しかし、奥中本人に関しては、
仕事の幅を大きく広げ、引き出しを増やすというというメリットがあった。
時代劇から現代もの、子供向けヒーローものから昼メロまで、
得意分野でないものはない、という幅の広さは、テレビ演出家の中でも
際立っている。

とはいえ、そのテレビにおける作品の代表作のほとんどは東映のもの
であるが、67年からその死まで、奥中氏は一貫してフリー演出家の
立場をつらぬいた。1973年、奥中が日テレで『伝七捕物帳』の
第一回を演出したとき、テレビ朝日の裏番組が、東映テレビ制作の
『旗本退屈男』で、なんと演出は恩師の渡辺邦男だった。
この時の視聴率競争で、奥中は恩師に勝つという“恩返し”を
やっている。

同じ京撮の飯を食いながら、一応監督に昇進したため、多少遅れて
京都からテレビ部に配属された平山亨が『悪魔くん』(66)を
皮切りに子供番組の大量制作を始めたのを脇目で見つつ、奥中は
他社でメロドラマなどを撮っていたが、1969年、平山が『妖術
武芸帳』の打ち切りで、急遽『柔道一直線』を作らねばならなくなり、
準備もろくにできず頭を抱えていることを知って、
「オレは中学時代に柔道部のキャプテンだったので柔道を知っているし、
以前にも『柔一筋』や『くらやみ五段』といった柔道ものを撮っている。
使ってくれ」
と自ら売り込みをする。平山には天の助けだったろう。実際、奥中が途中
参加して、俄然、『柔道一直線』は面白くなりはじめる。

奥中氏が平山氏に強くサジェスチョンしたのは、
「柔道をそのまま撮ったのでは、絵にならない」
ということだった。実際、本物の柔道の試合を参考に見にいった
平山プロデューサーは、そのつまらない(映像的エンタテインメント性のない)
ことに仰天したという。
「それから、どうやったら映像的に面白くなるか議論してね。
要は徹底してフィクションにするしかない、ということになった」
その結果生まれたのが、あの、近藤正臣の、足でピアノを弾くシーン
だったという(脚本は佐々木守)。
http://www.youtube.com/watch?v=T51tK_W2vgo&feature=player_embedded
この5:20〜のところにその映像(絵のみ)がある。Yahoo!知恵袋の
回答にあったが、回答者、よく見つけてきたものだなあ。
平山はこのときの恩義を、後に上述した『伝七捕物帳』の演出担当が
東映内部で大問題になり、ホサれかけたとき、社内を駆け回って
奥中を弁護し、『がんばれ!ロボコン』でカムバックさせている。
素晴らしい友情だと思う。

著書のタイトルに『仮面ライダー』のタイトルが入っているが、
実は奥中がライダーを撮ったのは数本しかない。しかし、その数少ない
一本(『仮面ライダーV3』第4話)で、奥中はライダー史上伝説の、
命綱なしのエントツの天辺での直立をやらせている(演じたのは中屋敷
哲也)。
http://www.pideo.net/video/pandora/3c026cf07393ecd9/
これはご本人に直に聞いた話では、撮ってるときは無我夢中で、危ない
ともなんとも思わず、完成したフィルムを見て怖くなってしまった
とか。撮った奥中にも、演じた中屋敷にも、カツドウ屋の血、という
ものがまだ、テレビの撮影現場に脈々と流れていたのだろう。

早撮り名人と言われた渡辺邦男についていたことがテレビの厳しい
スケジュールの中での演出にどれだけ役立ったかは言うまでもないと
思う。そして、その代表作(上記三作)に共通する、ある種の日本的
泥臭さもまた、新東宝テイストとして、監督・奥中惇夫の骨身に
染み込んでいたことも間違いない。『仮面ライダーが……』の中で、
彼は平成のライダーシリーズに苦言を呈している。身体を張った
アクション、仮面の下に冷や汗を流しながらのエントツ立ち……
こういった絵づくりを行ったきた奥中惇夫にとり、ゲーム感覚
を取り入れた昨今のライダーに違和感を覚えるのは当然だろう。

『仮面ライダーが……』を読んで感じるのは、奥中惇夫という人の
義理堅さである。自伝なのに、それぞれ一章を割いて、恩師渡辺邦男
と、多くのヒーローものでつきあいのあった石ノ森章太郎の思い出
を書き、さらに自分とつきあいのあった人たちのことを律義に
記している。これも、奥中が、その位置を映像業界で定めるまで、
長く不遇の時代を送ったことの現れであり、昔の映画人の人間関係
のとらえ方をよく表している。もっとも、その義理堅さのおかげで、
新東宝時代の助監督に誘われて二院クラブの比例代表制候補者名簿に
名を連ねるという、ちょっと驚くようなことになる。本人はいい体験
だったと語っているが、アルチザン・奥中惇夫には似合わなかった。

2月19日心不全で死去。81歳。
テレビドラマの演出家ではあったが、カツドウ屋という言葉がこれほど
似合った人はいなかったと思う。黙祷。

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