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2012年2月16日投稿
存在感の人 【訃報 左右田一平】
2月10日死去。81歳。
吾妻ひでおのマンガにこの人は登場している。
『ふたりと5人』で、主人公のおさむと先輩が、
「そうだ!」
と意気込んで叫ぶと、次のコマで左右田一平が
「そうだいっぺいです」
と言って殺虫剤をシューッ、とスプレーする。
当時、アースのCMでそういうのがあったのだ。
このギャグに私は大喜びしたものだ。
吾妻ひでおは大好きなマンガ家で、その作品に知っている
人間が登場したのだから。
そう、左右田一平は私の父の友人だった。
親友と言っていいかもしれない。
札幌時代、小野栄一と広田信夫(後の左右田一平)とうちの
親父は、しょっちゅうつるんで遊んでいたそうだ。
後年になるまで、テレビで彼の姿を見かけると、親父は
「おお、広田だ。頑張っているなあ」
と目を細めて喜んでいた。
これは、親父が友情に篤いというよりも、当時の友人・知人連
誰ひとりとして、彼が役者として食べていけるとは思っていなかった
からであるという。確かにどう見ても二枚目とはいえないし、
演技にも、鋭いところはどこにもない。
そこらのおっさんを連れてきたのではないかとしか、一見したところ思えない。
ところが、それだけに、ドラマの中に置くと、その存在感といったら
なかった。リアリティのオーラが立っている、という感じであった。
代表作は何と言ってもテレビ『新撰組血風録』(1965)の
斎藤一だろうが、時代劇の代表作の役名が一(はじめ)なのに、現代劇の
方を見てみると、甚平だの源三だの留吉だのといったものが多いのが笑える。
どっちが時代劇だかわからない。要は、そういう顔、なのである。
もともとは自分も俳優になる気はなかったのだが、遊び仲間の
小野栄一に、人数が足りないからと素人劇団に引っ張り込まれた。
私の母(小野の妹)とも舞台に立ったという。
それがきっかけで演劇に興味を持ち、役者を志して東京に出た。
文学座や俳優座であったら蹴られたかもしれないが、彼が門を叩いた
のは、薄田研二が設立した劇団・中芸(中央芸術劇場)であった。
当時はまだ弱小劇団で、大変だったと思うが、原爆で息子の高山象三を
亡くした薄田は、その心理的代償としてか、自分の劇団の後輩たちに
徹底して身を入れて演技を教え込んだ。その成果として、劇団員からは
山田吾一、金井大、そして左右田一平と、実力ある役者が多出している。
左右田も、死ぬまで薄田研二の演劇理論に忠実であったという。
師匠の薄田は東映の時代劇俳優として戦後有名になるが、弟子の
彼も、代表作が東映/NET制作の『新撰組血風録』であるところ、
師匠の名を辱めていない。
俳優として売れても、小野栄一やうちの親父とは親しくしていた。
後に、小野を囲むパーティなどでマイクを向けられると、
「小野ちゃんは才能があったので芸人になり、私は才能がなかったので
役者になりまして……」
とスピーチしていた。どちらにも、才能はあったと思う。だが、若いうちから
才気煥発である人間というのは、うまくコントロールしないと、無駄に才気を
使い散らして、凡々たる後半生を送ることになってしまう。左右田一平は
自分の才気を大事にし、無駄遣いせず、最晩年になるまで現役でいた。
伊丹十三の『お葬式』ではただ飲んだくれて突っ伏しているだけの
お通夜の客の一人だったのに笑ったが、テレビでは片岡鶴太郎版の『獄門島』
に村長役で出たり、『ナニワ金融道』でレギュラーをとったりしていたし、
そして21世紀に入っても、グルコサミンのCMで、あの香川京子と老夫婦役で
共演したのには仰天したものだ。かつては三船敏郎や長谷川一夫の相手役だった
大女優である。うちの親父が聞いたら
「へえー、あの広田が香川京子と夫婦役、へえー」
と言ったことだろう。
小野栄一の長男の言によると、数年前、もう引退状態の小野の元にきて、
「二人で養老院の慰問をやろう」
と言っていたという。老いてなお、意気軒高だったということだ。
脇役俳優としては最高の人生だったのではあるまいか。
ベスト演技は、顔が出ていないのがご本人に申し訳ないが、ウォルター・
マッソーの吹き替え。『突破口!』の、モソッとした初老のオヤジが
マフィアの殺し屋の追跡を飄々とかわして大金を手に入れる人を食った
ストーリィや、『がんばれ!ベアーズ』での、こまっしゃくれたテイタム・
オニール(麻上洋子)とのやりとりなど、ああ、日本版で左右田一平本人に
こういう役をやらせてみたかった、と思った程の適役だった。
せっかくつながりがあったのだ、もっとお話を聞いておくべきだった。
悔やんでも悔やみきれない。
ご冥福を祈る。