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2012年2月3日投稿
怪奇を語った男 『訃報 山田野理夫』
1月24日、没。89歳。
1960年代半ばに、ちょっとした妖怪ブームが起こって、そのたぐいの
出版物があちこちの出版社から大量に出た。この時期、空飛ぶ円盤などの本も
ブームであり、これら“人外のもの”のブームと、折りから不安定となっていった
政治状況とのからみは決して浅くない。
高度経済成長は当然のことながら、その成長に乗った者と乗り損ねた者の格差
を拡張し、発展の影に潜む者どもとして、怪獣や宇宙人、そして妖怪といった
零落した神たちに人々が関心を示したのも当然のことだった。
山田野理夫はその時代に、民話の専門家の余技として、怪談の世界に
足を踏み入れた。
大正11年、仙台に生まれた氏は、東北大学文学部史学科卒、第6回
農民文学賞受賞というその経歴が物語るように、郷土とそこに生きる人々の
歴史を語ることをライフワークとした人だった。そして、時代が、彼を妖怪の
語り部とした。
その語り口、そして妖怪とか怪異とかを見る視点は、当時の妖怪関係の著者たち
の中では異質なものだったと言っていい。今昔物語でも、江戸の奇譚であっても、
詩人でもあった彼の文章によって綴られたとき、それは“山田野理夫“の作品
になった。逆に言えば、非常に現代的な要素を持った作品になった。
それがいいことであったかどうか、現在の視点からは批判も多い。
彼の詩心からつむぎだされた妖怪譚が、果たして本当にその地域の伝統の
中から生まれたものかどうか、現在のマニアックな妖怪学の方法論から
すれば、単なるデタラメな作り話としか見られず、妖怪学の研究を
混乱させるものでしかない、という糾弾もネットの上にはある。
しかし、1960年代における妖怪譚は、現在のオタク的な知的欲求から
求められたものではない。この世界の秩序、この世界の理論的構成から
外れた、非常識の世界への逃避がニーズだったのだ。妖怪ライター数ある
中で、山田野理夫の怪異譚は、まさにその、現実の世界に隣接する非現実
の世界を描き出していた気がする。
訃報を知り、書庫から、中学生のときに読んだ『日本怪談集・その愛と死と
美』(1965年、潮文社リヴ)を掘り出して、改めて目を通してみたの
だが、その文体(「……いたのです」を繰り返す文体が非常に印象的だった)
以外、ほとんど記憶から消えていたのに驚いた。妖怪図鑑的な知識
の充足を期待して購入した中学一年生には、山田氏の文章が描く、詩的
な世界はついていけないものだったのだろう。ことに、古典から採られた
エピソードのあいまにときおりはさまる、出来の悪いコントのような落し噺に
ヘキエキしたものだ。それも内容はほとんど忘れていた。
確かに読んだ、という証拠として記憶にあったものは、後にNHKの
番組で実際に見た、千葉の仏教劇『鬼来迎』のシナリオ採録(?)と、
ところどころに挿入される、氏の詩であった。特に、下記の詩は少年時代の
私にとってトラウマとなっていたものだった。
『水稲』
「あの男には肛門がない
田んぼの中に
べっべっと口から
血の混った糞をする
水稲には虫が涌き
茎は朱になる」
農業を営む者たちにとっての稲の病気を妖怪的存在にイメージさせた
その表現は、“この世ならざるところにいる”妖怪ではなく、現実世界
にある災厄や現象すなわち妖怪なのだ、という著者のメッセージが強く現れた
ものだ。
その後、山田氏は東北の民話・怪談の研究者として活躍した。
ふるさと・東北の被災に、どのような思いを胸中に抱いたこと
であろうか。訃報を記に、中学一年生以来数十年ぶりに、氏の
著作を渉猟してみたい気になった。
冥福をお祈りする。