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2012年1月4日投稿
偶像破壊者 【追悼 市川森一】
戦後日本が生んだ最大のヒーローであるウルトラマンだが、
不思議なことにそのヒーローを生み出したライターたちには、
ヒーローの特性である力、正義、そして彼らヒーローが命を
かけて守る“日本”という国家に対し、アンビバレントな感情を
持った人たちが多い。
ウルトラシリーズそのものの生みの親、金城哲夫、その路線を受けつぎ、
東映ヒーローものにも進出した上原正三は沖縄出身。ウルトラマンと
同時期の『マグマ大使』でヒーローものデビューし、『帰ってきた
ウルトラマン』で第二次怪獣ブームの一翼を担った石堂淑郎は
広島県出身。そして、コント畑出身ながら『ウルトラセブン』に
おいて強烈な印象を残す回を担当した市川森一は、長崎出身である。
いずれも、戦争の惨禍を最も大きく受けた地方の出身者だ。
彼らにとり、“正義”“ヒーロー”というものは、決して単純な
受け止め方が出来る存在ではなかった。
中でも市川森一は、最もダイレクトに、単純なヒーロー像そのもの
に対し、偶像破壊を試みた脚本家である。
彼が『ウルトラセブン』の中で創造したキャラクターに、クラタ隊長
(南廣)がいる。キリヤマ隊長と士官学校で同期だったという
彼はいかにもベテラン軍人らしいカッコよさを備えたキャラクター
として描かれるが、彼は実はキリヤマと一緒に、かつてザンパ星人
たちを全滅させた、大量虐殺者としての過去を持っている。
戦争という行為の中でヒーロー足り得るには、そのような一面が
不可欠であることを市川の脚本はさらりと描いているのである。
このアンチヒーロー的世界観は、セブンと同じく地球に単身、派遣され
ている存在で、そのことに堪えられなくなった宇宙人・マヤを描いた
『盗まれたウルトラアイ』、自分の研究を受け入れてくれなかった
国をうらみ、宇宙人に協力してしまう地球人を描いた『ひとりぼっち
の地球人』などに顕著である。さらに、セブン以上にアンチヒーロー観
が際立ったのは宣弘社制作の『シルバー仮面』で、その第4話
『はてしなき旅』では、宇宙人の襲撃から、(主人公たちが追っている)
光子ロケットの設計図を守るため、共同開発者だった博士(伊豆肇)を
ヒーローは守るが、博士はラストで、その光子ロケットの設計図を燃やして
しまう。この設計図がある限り、自分や家族は宇宙人に狙われ続ける……。
言わば、この話で市川はヒーローというものの存在が地球を侵略の危機に
陥らせている、という逆説を提示しているのである。われわれの世代は、
実は単純明快なヒーローものの影に隠れて、すさまじく重い命題をつきつけ
られていたのだった。
市川は後に『仮面ライダー』の企画立ち上げにも加わり、あの有名な
「仮面ライダー本郷猛は改造人間である……仮面ライダーは人間の
自由のために闘うのだ」
というオープニングナレーションを考案する。平山亨プロデューサーの
『仮面ライダー名人列伝』によると、番組のコンセプト会議において
市川は
「正義のために戦うなんていうのは止めましょう。ナチスだって正義を
謳ったんだから、正義って奴は判らない。どんなお題目を掲げていても
人間の自由を奪う奴が悪者です。仮面ライダーは、我々人間の自由を
奪う敵に対し人間の自由を守るために戦うのです」
と主張したという。
そう、市川森一という人がヒーロー像を崩そうと試みたのは、単なる
偶像破壊が目的ではなく、“正義”という言葉が含有する、その
単一方向性を嫌ったからなのである。
……とはいえ、子供番組を離れても、市川森一のヒーロー像破壊癖
はやまなかった。大谷竹次郎賞を受賞した大河ドラマ『黄金の日々』では、
同じ大河ドラマで13年前に国民的人気を博した『太閤記』のヒーロー
豊臣秀吉を、同じ緒形拳に演じさせ、晩年の、老耄した元・英雄の
人間的愚かさを徹底して描くという、いささか悪趣味なことをやって
いるし、ある種カルトとなっているドラマ『傷だらけの天使』は、
これ全編、タテマエとしてのヒーローのかっこよさをひたすら破壊
していく、市川本人曰くの
「壮大な実験作」
であった。一応探偵ものの主人公でありながら、最終回、相棒(水谷
豊)の死体をドラム缶に入れてゴミ捨て場に捨てにいく主人公(萩原
健一)の姿は、強烈な衝撃となって当時の視聴者の世代の記憶に
残っているはずである。
その偶像破壊の最たるものが、1975年のNHKドラマ、
『新・坊っちゃん』だろう。ある意味、江戸っ子という日本人の
作り出したヒーロー像の、得手勝手な行動の痛快さを描いた国民的原作
を、市川は日露戦争前夜という時代背景の中に改めて置きなおして
『シルバー仮面』でコンビを組んだ柴俊夫に演じさせ、その時勢の中で、
無力な正義、無力な意地を持った男(男たち)のあがきを描き
続けた。当時の新聞に、原作ファンの女の子がこのドラマを見て
あまりの原作との違いに泣き出した、という、その子の父親の
怒りの投書が載ったのを皮切りに、かなりの論争が投書欄で
行われていたのを見た記憶がある。
『坊っちゃん』のラストは、言うまでもなく坊っちゃんと山嵐に
よる赤シャツ、野だいこへの鉄拳制裁だが、そのカタルシスさえ、
市川は主人公に与えない。タヌキ校長を監禁して、生徒たちを戦場
に送る演説を阻止しようとたくらんだ坊っちゃんの策略は、結局
代理で演説した赤シャツに出世の糸口を与えるだけに終る。
赤シャツはうらなりの許嫁のマドンナまで我が物とするが、
結局、坊っちゃんと山嵐は、その結婚式の夜、赤シャツの紋付に
後ろから卵をぶつける、といううさばらしだけしか実行できず、
最終回のラストは、地方の学校に左遷されたうらなりと山嵐、鉄道
職員となった坊っちゃんのわびしい姿のあと、日露戦争の戦場で
累々たる死体となって横たわる、彼らの教え子の姿を映して幕が下りる。
同じくヒーロー像をユニークな視点で描き続けた石堂淑郎(1932
年生まれ)が60年安保世代の挫折を原点にしていたように、市川
(1941年生まれ)は70年安保の挫折の空虚な心証、目的意識の
喪失、いや、そもそも(正義とか平和とかいう主張の必ず有する)目的
そのものへの疑義を、ドラマの中に投影していたのかもしれない。
われわれは、彼らの苦悩、彼らの世代の煩悶を、ドラマの中で
七転八倒する、ヒーローらしからぬヒーロー像という形で受け止めた。
ある程度の年齢になってやっとそれは、当時の情勢とあわせて理解
できるものとなったが、しかし、最も感受性の強い少年時代に、
そのような重いテーマを、トラウマという形ではあれ、心の隅に
植え付けてくれた市川森一という人に満腔の感謝を贈らねばならない
ことは確かだろう。あの記憶あればこそ、われわれは、空虚な正義に
突っ走ることの愚かさを学べたのである。
2011年12月10日、肺ガンで死去。70歳。
正義という言葉の真の意義を問わねばならない時代に、最も大切な
人が、逝った。無念である。
R.I.P.