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2011年12月30日投稿

苦悶していた男 【追悼 石堂淑郎】

11月1日に膵臓癌により死去していたことが、一ヶ月ほどして
公表された。79歳。

ウィキペディアでは2008年に上梓された『偏屈老人の銀幕茫々』の、
「私の文筆の仕事は本書で終わりました。後は冥界で実相寺昭雄や
今村昌平と会うだけです」
と言う文章を引用していて、これだけ読むと何やら石堂氏は枯れて
もう生命に固執がなかったかのように思われるが、とんでもない、
当の『偏屈老人〜』を読んでみると、彼ら亡友への追慕にからめ
て、若い日々の悶々とした性欲との戦いの、露悪的なまで饒舌な
記録となっていて、読んでいていささかヘキエキするほどである。

もう四十数年も前に関係した女性との関係を克明に描写する
その記憶力に驚嘆すると共に、石堂という人の、“人間”という存在
への熱烈な執着に圧倒される思いがする。しかも、この連載原稿を
書いていたのが、70歳を越えて心筋梗塞と脳卒中に見舞われ、
半身不随になって入院したベッドの上、なのである。その連載の
最終回は、入院した病院の若い看護師の女性との交合を夢に見る
話である。まさにバイタリティというか、生命への執着は並大抵
のものではない。

石堂氏の名を映画界に知らしめたのは、松竹での大島渚とのコンビ
である。デビュー作『太陽の墓場』(1960)で、スラム街の
住人の大男(後に黒澤の『用心棒』で巨漢のヤクザ・かんぬきを
演ずる羅生門綱五郎)が、戸籍を金で売ってしまい、その重要さを
後で聞かされて
「じゃ、もう俺は俺じゃねえのか。本当の俺はどこにいるだ」
と、顔に手を当てて子供のように泣くシーンがある。個人が個人で
ある、最後のアイデンティティすら金に替えざるを得ない最下層の
人間の哀れさが、他の映画では人間ばなれした怪物のような扱いの役
が多い羅生門によって演じられることで、非常によく伝わってきて
記憶に残るシーンになっている。

石堂と大島との共同脚本で最も有名なのはディスカッション・ドラマ
と称された『日本の夜と霧』(1960)だろう。思想(左傾の)
が若者のアイデンティティ代行となっていた時代の終わりかけの
煩悶をすくい取った、極めてユニークな、そして見るのがつらい
映画だった(抜群に面白いのではあるが)。

大島との脚本コンビの最後になったのは1962年の東映の時代劇
『天草四郎時貞』(主演・大川橋蔵)だったが、これがまた、
どうにも見るのがつらい映画であった。映画の9割8分までが、
天草のキリシタンたちが、いかに幕府に虐待・惨殺されていったかを
延々と描いている。彼らは裏切り、自暴自棄になり、反乱をくわだて
ようとするが、信者のリーダーである天草四郎はまだ時期が早い、
と彼らをなだめる。そうこうするうちに追い詰められた信者たちは
地下の礼拝所に集り、最後の最後でやっと、天草四郎が
「このままではいられない」
と反乱を決意し、立ち上がる。他の信者たちも、その四郎の決意に
同調し、立ち上がる。そこで字幕が入り、この反乱が信者たちの
敗北に終わり、天草四郎も戦死、首謀者たちは処刑された、と説明
されて、終、の文字が出るのである。名画座で初めて観たとき、
あまりのカタルシスの無さに、しばらく席でぽかんとして
しまったものであった。石堂にしてみれば、60年安保の象徴である
思想を信仰に置き換え、いかに権力者によってそれが踏みにじられて
きたか、ということを描くのがこの映画の目的で、その後の反乱などは
どうでもよかったのだろう。だが、それはあまりにも一般大衆が映画に
求めるものとは距離がありすぎた。この映画が記録的な不入りとなり、
結果、映画界で仕事のなくなった大島と石堂はテレビに進出し、当時
流行しはじめていた社会派番組の制作に加わって頭角をあらわす。やっと
彼らは自分たちの存在意義(アイデンティティ)を確保できたわけだ。

監督の大島渚が、この“人間のアイデンティティ問題”をさらに
明確にテーマとして押し出したのが1968年の『絞死刑』(ATG)
だろう。ただし、この脚本は田村孟、佐々木守等で、石堂は加わって
いない。彼はこの映画には役者として出演し、自分が自分であるという
記憶を失ってしまった死刑囚・Rに、なんとか自分が死刑囚であること
を思い出させようと悪戦苦闘する教戒師を演じている。女性を強姦して
死に至らしめた罪で死刑の宣告を受けたことをRに説明しているうちに
「ハッ、今、私は自分の心の内にみだらなことを思い浮かべてしまった。
悔い改めなくては!」
と、部屋の隅に座り込んで神に祈りを捧げ始めるというトボケぶりが
何とも可笑しかった。たぶん、『瘋癲老人〜』の記述から見るに、
石堂のこの、自分の中の性欲との戦いは知人間では有名なもので、
それが台本に取り入れられたのではあるまいか(この映画の台本が
記載された『シナリオ』誌を学生時代、古本屋で手に入れたときは
飛び上がって喜んだのだが、いま、ちょっと出てこない)。

日本の思想家というのは、例えば小林秀雄などが典型だろうが、
小柄で痩躯、考える機械的な存在で、性や食といった肉体的欲求
からは解脱した、という外観(内面がどうなのかは知らない)を
持つというイメージがこの時代、常であった。石堂氏も、理想は肉欲
を思想に昇華させたシンキング・マシンであったろうが、
残念ながら、後に大河ドラマ『花神』で力士隊の隊員役まで演じた
ほどの彼の肉体が持つ動物的欲望は、その思考を押しつぶすほど
強かった。似たような悩みを持った人物に作家の胡桃沢耕史がいるが、
数年のタッチの差で満蒙へ飛び出し、大陸の地でその発散の場を
見つけた胡桃沢に比べ、7年年下の石堂は敗戦後の日本国内に閉じ
こめられ、悶々とするしかなかった。高校二年で大学入学資格を得て
広島大に入学し、さらに東大に再入学したという優秀な頭脳を持った
石堂にとり、その頭脳が肉体の欲望に蹂躙される苦痛は耐えがたかった
ことだろう。そして、結局思想は肉体という現実の存在にかなわない
のではないか、というアイデンティティ不審につながっていく、と
考えるのは自然なことと思える。

テレビに仕事の場を移した石堂は、子供番組に多く参加する。
彼が脚本を担当した『マグマ大使』46話で、孫を交通事故で
失った老人の怨念が生み出した怪物・海坊主をマグマが倒したとき、
その老人も死ぬ。ゴアはそれを見てマグマに、
「お前が殺したんだ! 人殺し!」
と叫ぶ。この後、マグマの
「私は老人の悪い心だけを殺したのだ」
といういかにも子供番組的なエクスキューズがあるが、ヒーローが
「人殺し!」
と糾弾されるというのは、子供心になかなかショックであった。

SFヒーローものの、ヒーローの無謬性を崩そうという姿勢は、
奇しくもほぼ一ヶ月後に石堂の後を追って彼岸に旅立った市川森一にも
顕著だったが、市川がそれをヒーローもののワク内でやろうと
していたのに比べ、石堂はそもそも、SFヒーローという
存在そのものに疑義を感じていたフシがある。『帰ってきた
ウルトラマン大全』(2003)の中で、石堂氏は
「俺、宇宙人嫌いなんだよ。なんの具体性もなくてね。そんなの
いるわけないのに。だから宇宙人が好きな奴が大嫌いなんだ。
宇宙人大嫌いだというか憎んでるんだね」
と、SFものの大前提を否定するかのごとき信念を堂々と述べて
いる。人間は所詮、その肉体につなぎ止められた奴隷であるという
観念の持ち主であった石堂にとり、その肉体の限界を軽々と
超える宇宙のスーパーヒーローなど、荒唐無稽な存在でしか
なかったのだろう。……それ故に、石堂がSF性の代わりに
ストーリィの中心に置いたものは、寓話、民話といったメルヘン
の要素だった。

石堂のウルトラシリーズファンの間での“悪名”を高めたのは
『帰ってきたウルトラマン』第23話『暗黒怪獣星を吐け!』
であろう。まず、カニ座からやってきた宇宙怪獣、という設定が
「カニ座というひとかたまりの星群があると思っているのか」
と考証派ファンからのツッコミを受けた。しかも、MATの隊長が
それを聞いて、
「そう言えばあの怪獣、カニそっくりだ」
という、間抜けな感想を述べる。さすがに見ていてこれはどうか、
と私も思った。

しかし、石堂氏の思惑は、全くSF考証などとは別個のところに
あった。時代は1971年。高度経済成長時代の爪痕は日本各地に
及び、開発でふるさとを追われた人々が東京に出て働いていた。
地方都市の過疎化がマスコミで問題視されるようになったのもこの頃
である。石堂は、ふるさとを失った者たちの悲しみを、生まれ故郷の
カニ座を追われた怪獣・ザニカに託したのではあるまいか。宇宙空間の
星々を食いつぶしていく怪獣・バキューモンはあきらかに大企業の
アナロジーであろう。

第一次怪獣ブームの1960年代、科学はわれわれの暮らしを豊かに
してくれるもの、としてイメージされていた。しかし、やがて、
科学は公害や乱開発などの弊害を生むこともわかってきた。
1971年に、第二次怪獣ブームのさきがけとなって放映された
『宇宙猿人ゴリ(後に『スペクトルマン』)』では、初期の敵は
ヘドロやスモッグなどの公害をキャラクター化した怪獣たちであった。
科学というものに対する純朴な信仰は、すでに人々の心から
消失していたのである。広島県出身で、原爆の被害もつぶさに見て
いたであろう石堂(1989年には今村昌平の映画『黒い雨』の
脚本も書いている)にとり、科学は自分たちのアイデンティティを
奪い去る存在だったのである(ちなみに石堂はカニ座の生れであり、
怪獣をカニ座の出身にしたのは確信犯だろう。それ以前にも石堂は
『マグマ大使』でカニ座由来の怪獣・カニックスを登場させて
いる)。石堂氏がメインとなった怪談・民話調のストーリィには
現在、賛否両論があるが、ちょうどディスカバージャパンが叫ばれて
いた当時の風潮には、見事にマッチしたのである。

その石堂氏の路線は、多くの第一次ブーム以来の怪獣ファンを
ウルトラマンから離れさせたが、新しい世代の視聴者に受け入れられ、
前半、一時は16%台にまで落ち込んでいた『帰ってきたウルトラマン』
の視聴率はこの23話あたりから回復しはじめ、後半全話をほぼ、
20%台後半という高視聴率で締めくくり、後のウルトラシリーズ
につなげることが可能となった。石堂氏の生涯のテーマであった、
自らのアイデンティティ探索は、ちょうど、高度経済成長期に
自らの姿を見失った日本人の、アイデンティティ探索の欲求に
応えたことになる。ある意味、彼は宇宙の果てからやってきたという
国籍不明のウルトラマンを、“日本のもの”として定着させた
役割を背負ったと言えるだろう。

果たして氏は、長い旅の果てに、本当の自分を探し当てることが
出来たのだろうか。彼岸へと旅立つ際に、ひと言訊いてみたかった
気がする。ご冥福を祈る。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa