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2011年11月24日投稿

「可愛げ」の男 【訃報 立川談志】

「噺なんかやらなくッたッていいンだ。正ちゃん帽かぶッて
綿入れ着て、座布団に座ってニコニコしててくれりゃアいい。
生きていてくれさえすりゃアいいんで……」
……と、いうのは、古今亭志ん生が亡くなったときの、立川談志
のコメントである。伝説の人というのは、たとえ耄碌しても
何でも、ただ生きていてくれるというだけで価値があるものなんだ、
という愛情あふれた言葉であったが、自分自身について、談志は
そういう伝説の人になることを拒否したようだ。

21日に死去、そのまま家族が密葬して、23日になるまで、
弟子たちにも全くその報せがいかなかった。死に様を見せないという
美学と言えば一種の美学ではあるが、仮にも一門を率いる人間として
弟子たちにはまことに困った、迷惑な話である。しかし、最後の
最後まで家元のワガママに迷惑をかけられたという、弟子たちにとり
「高座での話のタネ」
という最高の遺品を残して逝った、と言えなくもないだろう。
最後まで談志流を貫いた一生だった。

談志というファクターのない私の人生は考えられない。
初めて談志を聞いたのは、私がまだ4つか5つのときだった。
母方の祖母の葬儀の席で、母の兄(小野栄一)が芸人だったため
集った仲間が、
「芸人の家の葬式が湿っぽくなってはいけませんので」
というので、棺の前の座布団に若い噺家が座って、落語をやった。
はるか昔のことで記憶も茫漠とはしているが、確か『子ほめ』だったと
思う。そして、これだけは確かなのは、まだヨチヨチの子供であった
私にとっても、その落語が凄まじく面白かった、ということで
ある。談志、いや、まだその時はぎりぎりで小ゑんであった筈だが、
そんな小さな子供が自分の落語にキャッキャと言って喜んでいる
のが物珍しく映ったのだろう。それから数年後、銀座の『美弥』で、
私の母に、
「あやちゃん、あんたの所の息子は面白い。きっと気に入るから
俺の薦める本を買って読ませてやッてくれ」
と、サイフから二千円を出し、メモ用紙に星新一の著作の題名を
書いて渡したという。母はそれを見て、
「あら、星新一なら息子は全巻持って読んでるわ」
と言い、談志は
「そうか、そりゃエレエ!」
と言って、その二千円を、そそくさとサイフにまたしまったという。
今でもその二千円が、ちょっと惜しい。惜しいが、一旦出した金は
もどせねえ、などという『文七元結』みたいなやせ我慢はしない
ところが、談志流の“美学”なのだろう。

たぶんそれと同時期だろう、おじが札幌で『小野ちゃん、故郷に帰る』
というショーをやった。前半が芝居、後半が歌謡ショーという構成
だったが、その芝居が西部劇であり、談志がナレーター兼酒場の
マスターという役で出演していた(談志をワキで使うくらい、自分の
おじが売れているんだ、という認識がちょっと誇らしかった)。
小野栄一扮する主人公が恋人の危急を知ってバーから飛び出ていく。
宮崎尚志作曲のテーマ曲が軽快に流れる中、談志のマスターが
活弁調のセリフで
「かくてわれらがヒーローは愛する女性の危機を救わんと、勇躍、駆け
いだすのでありました……なンて言ってる場合じゃない、あたしも
いかないと」
と飛び出そうとするのだが、とたんに音楽が安っぽい曲に変わり、
談志、ガッカリして泣きながら出ていく……というオチがついていた。
すでにこの頃『笑点』で毒舌の談志になじんでいた私には、こういう
ボケにちょっと違和感があった。その後も談志のコントや漫才を
数回見たことがあるが、いずれもこの時のようなボケを担当していて、
不思議で仕方がなかった。どう考えてもツッコミのキャラなのに。

たぶん、喜劇の世界ではアボット&コステロのコステロや、マーティン
&ルイスのジェリー・ルイスなど、ボケ担当の方が絶対の人気者である。
談志はそれにあこがれて、自分も、喜劇をやるならボケをやりたい、
と思っていたのだろう。そこらへん、あこがれるとなると自分の
キャラを忘れて、ニンでない役柄を演じてしまうという可愛さも
持っていた。談志というと必ず問題児、天才のわがまま、唯我独尊
などというイメージがつきまとうが、根底にあるのはこの“可愛げ”
だったろう。ひょっとして、談志は自分の本体であるこの可愛げを
押し隠すために、あのような偽悪を演じ続けていたのではあるまいか。
それは、江戸っ子の持つテレの意識の、幾重にもひねくれた表出で
あったように思うのである。

中学、高校の時はラジオのSTV名人会を聞きまくり、談志の回は
テープに保存した。実際に何回も聞きにいったが、弟と二人で
出かけたときの『権兵衛狸』のとき、途中で子供が泣き出して、
話が途中でストップしてしまったことがあった(全ての子供が私の
ような物好きではない)。談志はその子供に向い、“アババババ”
とあやし、
「子供のいる親だって落語を聞く権利はある。……だけど、あえて
子供がいるから、と聞きにいくのを我慢する、というのが、
本当の落語と、その子に対する愛情でネ」
と、露骨にイヤミを口にして、いたたまれなくなって母親が子供を
連れて出ていってしまった。もちろん、会場の客たちは談志ファン
だからこの処置に文句はないものの、やはり後味が悪いことは確か
である。話を再開させてしばらくして、どういう流れだったかは
忘れたが、談志がちょっと唐突という感じで
「今日みたいにレベルの高い客だとサービスしないわけにいかない」
とテレたような笑顔で言い、大きな拍手がそこでわいた。
「あ、ちゃんとフォローを忘れない。商売人だなあ」
と私はかなり感心してしまった。

その後、上京しておじのプロダクションの手伝いをはじめてからは
お仕事としてのつきあいが主になる。談志師の意識の中にある
私は、“小野チャンの甥っ子”であり、“下働きしている若いの”
であった。やがて私が独立して、談笑の真打昇進のパーティでスピーチ
したり、雑誌で落語のことを語ったりしているのを見て、両者が
一致しなくて混乱を来していたらしい。必ず脇の人間に
「ありゃ、小野チャンの甥だろ?」
と確認していたと聞く(よほど私は下働きからウダツのあがることの
ない人間、と思われていたのだろうか)。

快楽亭ブラックが私のラジオに出演した直後、大動脈解離を起して
倒れ、その翌週にその顛末を語ろう、と談之助をゲストに読んだ。
最初は快調にトバしていた談之助だったが、途中から急に口ごもって
しまった。おかしいなと思って、その視線の先にある調整室の方を
見ると、驚いたことに、家元が腕組みしながら中をのぞき込んでいる。
考えてみたら、当時談志もTBSで番組を持っており、どこからか
今日、自分の弟子が出るというニュースを耳にしたらしい。

仕方なく、というか大喜びで、というかスタジオに呼び込んで
話してもらうことにしたのだが、入ってきた家元、私の方を見て
ちょっと驚いた表情で
「……あンた、ここで何してンの?」
と言った。
「いえ師匠、あたしの番組なんです」
「へぇー、そう!」
このときも、スタジオを後にしながら、マネージャーである
息子の慎太郎に
「……ありゃ、小野チャンの甥だよな?」
と怪訝そうに訊ねていたそうである。ついに私をそこのイメージから
脱却させて覚えてはくれなかったようだ。

……これだけの大物が亡くなったのである。
談志の落語とは何だったのか、談志という存在は落語界に
とって何だったのか、という考察を本来、語らなければならない
のだろうが、今はまだ、有名な“談志が死んだ”という回文を
実感として自分の中に落ち着かせるのに精一杯である。
ただ、これまでの半世紀近い、立川談志という人物の記憶を、
頭の中からとりあえず取り出して並べて、追悼に代える。
TBSのラジオの中で、家元が私を指して
「コイツは落語のことがわかってるから……」
と言ってくれたことは、たぶん一生忘れない。
それが商売人のフォローだったとしても。

安らかに、という言葉をかけるのがこれほど似合わない人も
いない。困ったもンである。

Copyright 2006 Shunichi Karasawa